「風景(抜書) - 池澤夏樹」新潮文庫 母なる自然のおっぱい から

 

 

「風景(抜書) - 池澤夏樹新潮文庫 母なる自然のおっぱい から

 

風景というのは常にある特定の場所からの眺めだ。世界と人との関係において、人はいつもどこかある場所にいる。世界の方は見える範囲の外側まで広がっているが、人の方は必ず「ここ」にいる。だから風景とは「ここ」から見える山であり、川であり、森である。
厳密には人の目の位置は地表から一・五メートルほど、視野が数キロに及ぶ開けた場では相当に地面に近い低い視点と言わなければならない。それでも、地上一・五メートルというのは、下草の背よりも上に目を置いて遠くを見ることが可能な高さだ。地上三十センチを這ってまわる動物の目がさほど発達しないことは容易に想像できる。実際、犬の視力など哀れなもので、そのかわりに犬は鼻が地面に近いことを活用して鋭敏な嗅覚をそなえている。ほぼ全色盲で、百メートル先の飼い主も視覚で識別できない犬の世界観は、相当に嗅覚的なものだろう。
人が開かれた地表の一点に立って両岸をある方位に向けた時に、その視野に入ってくるものの全体、近いところから最遠点までが遠近法に従って、つまり奥行き感をもって、並んでいるのが風景だ。遠景が含まれない場合には風景という言葉は使えない。部屋の中には風景はない。
具体的に考えよう。近頃てば銭湯はレトロに属するらしいが、銭湯という文化制度の中でも特にレトロっぽいのがあのペンキ絵である。今から二、三十年前まで、つまり市役所のロビーとかポストモダン様式の建築の外壁とかにそれらしい壁画が仰々しく飾られるようになる前には、銭湯の湯船の上の壁画は市井の人が目にすることのできる最も広い絵画用のスペースだった。
日本人の美の感覚を最も安直に、愚直に表現するあれらの絵を文化史として論ずるのはおもしろいこどだろうが、ここでは遠慮しておく。そのかわりに、あの種の絵の典型を一つだけ思い出してみたい。風景画、それもたいていは富士山。例えば正面に堂々と富士があり、裾野がなだらかに広がって、手前の方は海、その海の右手の方に小さな島が一つある、といった構図。空は日本晴れという感じに晴れて、淋しくない程度に雲がたなびいている。
この構図の絵は日本中にいったい何千幅あったのだろうか。最近では銭湯そのものが減っているし、富士はさすがに古いというので別の景物が描かれることもあるだろう。しかし、近代の相当に長い時期、日本人がすっかり精神を弛緩[しかん]させてのんびりと気楽な時を過す場に最もふさわしいと考えられたのが、富士なのだ。江戸の町民にとって富士が信仰の対象であったことは最近しばしば指摘されている。江戸の町にはいたるところに富士見町があり、富士見坂があり、富士塚が築かれていた。人々は富士講を結んでこの霊峰に登拝した。

一幅の絵として考えると、まずこの風呂屋の富士はシメントリーというまことに安定した構図を持っている。最初に山と海の対照という大きな二元論があり、その大きな二元論とできすぎたシメントリーの両方を僅かに破るものとして小さな島がある。島の形はこんもりと小山のようで、富士の典型的なコニーデの曲線とはよい対照をなしている。前後方向にも、近景に島、中景に海の向うの海岸、遠景に富士と、現代の美術の目で見ればあまりに整い過ぎた配置になっている。ここには緊張を誘う要素が何一つない。静穏で、平和で、たしかに人の精神を弛緩させるにふさわしい風景だ。
そして、これはある特定の場所に立って見た風景である。この絵を見る時、裸の入浴者は自分がその場所に立っていることを疑わない。彼は絵というものの約束ごとに従って、そこに描かれた事物がそのように見える場所に自分が立って、その風景を見ているのだと仮定する。二次元のペンキ絵が三次元の光景であることを仮に信じ、自分がその光景の前にいることを信じる。彼は富士と海が属する世界と銭湯のある現実の世界の境界線の上にいる。彼は富士と海がそのように見える場所が存在することを無意識のうちに認めている。それは絵の約束である以前に、風景の約束である。風景は、現実のものにせよ架空にせよ、一つの確定した視点を要求するのだ。
銭湯の富士は相当に具体的、現実的だから、富士がこのように見える場所の最もありうべき候補として、静岡県沼津市三津長浜の海岸という場所を推挙しておこう(これは画家の美学と現実の地理がたまたま一致しただけだという可能性を否定するものではない)。駿河湾の奥、東側に伊豆半島の付け根をえぐるように入った湾から、またほんの少し南に入りこんだ内浦湾という小さな入江の岸に立つと、ちょうどこの風呂屋の富士になるのだ。右手の島は淡島と呼ばれる。ここから富士山頂はほぼ北北西、正確には北から西へ二一度振った方位に見え、そこまでの距離はほぼ四〇キロ(淡島までは二キロ)。見る者と山頂の高さの差はもちろん三七七六メートルで、四〇キロ離れたところからだと、これは水平から五度あまりの角高度になる。太陽の視直径の十倍ほどだ。
銭湯の富士はもっとずっと大きい。絵は標準レンズで撮った写真ではないから、描かれる途中で富士が大きくなり、あるいは島の形が変わり、あるいは白帆の舟が一、二隻描き込まれることもあっただろう。人の精神は見えたものをではなく、見たいものを描く。それでもペンキの富士の原型はたぶんこの位置、北緯三五度四〇秒、東経一三八度五三分四〇秒の位置から見る富士にある。最初にこの場所を発見した江戸時代の旅の絵師があの構図を広めるということはなかったか。ここが古来富士見の名所として知られていた可能性はないか。