「フロント八道慎一郎 - 村松友視」文春文庫 帝国ホテルの不思議 から

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「フロント八道慎一郎 - 村松友視」文春文庫 帝国ホテルの不思議 から


部屋割りのコントロールは神秘のパズル

映画やテレビドラマにおけるホテルのシーンを思い浮かべれば、まずあらわれるのがフロントのシーンだ。フロントはfront deskの略だが、受付や帳場の意味があり、客を迎えるホテル側からの最前線というニュアンスもからんでいる。私などには、チェックインの言葉から、関所というイメージもあったりして、いささかプレッシャーを感じる場所なのだ。チェックという言葉に、阻止する、抑制するという雰囲気を感じてしまうからだろう。
話を聞かせてもらったフロントのアシスタントチーフである八道慎一郎さんは、タワー館の客室係を一年半体験し、トイレ掃除やベッド張りをこなしたあと、希望を出してベルマンに異動した。
ベルボーイという存在に、八道さんは入社当時からホテルの花形のイメージを感じていたという。ちなみに、“八道”は“やじ”と読むそうで、これまでに正確に読んでくれたのは、同じ中国地方出身の二人だけだった。ホテルは旅と切っても切れない関係だから、弥次喜多の「東海道中膝栗毛」も思い浮かび、“キタ”さんという人がチェックインすれば“ヤジ”さんが対応すれば面白かろうなどと、苗字をめぐる冗談でまずは盛り上がった。
ベルマンの仕事を十年こなしたあと、フロントへ異動して、客室係のときの体験が生きているという自覚をもった。私などは、フロントこそが華やかな職場で、気取りや気持のうわずりが出やすい職場のように思っていたが、それはどうやら誤解であるらしい。何しろ、夜の騒音にいたる苦情の数々が、宿泊客から直に伝えられフロントに集まるのだ。
お客に接するのは、チェックインのさい「いらっしゃいませ」「こちらにご記入ください」と言葉を向け、宿泊日数の確認や食事の案内などの説明のあと、「○号室のお部屋でございます」と言ってベルマンにバトンタッチをするまでのごく短い時間でしかない。フロントはお客との接点が意外に短時間だ、というのがフロントに配属されたときの、八道さんの実感だったようだ。
ベルマンはチェックインから客室までのあいだ、お客と接することができるが、フロントはカウンターから外に出ることもなく、迅速丁寧なスピード勝負が要求され、むしろ地味な職場だというのだ。
「お部屋を、どんどんお客さまに提供していくんですけど、全員が個人のお客さまではなく、団体のお客さまも入るわけで。約千室ある客室の中で、百室あるいは二百室は団体、あとはVIPのグループですとか、その割り振りをコントロールする。この判断がけっこう.....」
同じタイプの部屋でなければ団体客に不満が生じ、同じタイプの部屋を団体客に提供すれば、スイートルームやジュニアスイートなどに余り部屋が出てくる。その余った部屋を別の宿泊客に割り振る判断など、けっこう地味な仕事が重要であるという。
また、フロントはお金を回収する現場でもあるから、提供できる部屋と宿泊料の交渉など、他のセクションにはからまぬ金銭上のシビアな問題がともなう職場なのだ。私が想像していた、気取り、気持のうわずり、演じる気分なととは裏腹にフロントの仕事内容が、話の中で刻々と伝わってきた。
夜中のチェックインでスイートを希望するといったような、いったんは疑ってみなくてはならぬお客があらわれるケースもある。ホテルというのは、相互信頼を前提にした不思議といえば不思議な空間で、チェックインアウトなしに帰られても、冷蔵庫の中の飲み物の申告がなくても、それをすべて完璧に把握できるとはかぎらない。善意のマナーと自己申告制のシステムの組合せであるから、そこからもれるケースが皆無とは言いきれないのだ。
また、帝国ホテルにはシングルルームはないのだが、ダブルルームとツインルームの選択もまた、厄介な問題をはらんでいる。外国人客は、大きいベッドを好むタイプが多く、そういう宿泊客が多いときはダブルベッドの部屋が不足してくる。逆に日本人客は夫婦でもダブルベッドを使うケースが少ないから、ベッドが二台あるツインルームから埋まってゆく。
滞在中の宿泊客をのぞいた数百室の中で、ダブルベッドの予約が何件かなどを確認し、ダブルルームとツインルームの振り分けについての、その日の方針を立てる。その作業にはかなりの年季が必要だと、八道さんは言う。
「その宿泊客の状態が毎日ちがい、同じパターンではないので、その判断をするのになかなか時間がかかるんです。そういう部屋のコントロールができるまでには、下積みから入れるとどうしても三年くらいはかかる。九百室あって、普通の部屋で十種類あり、スイートは十五種類、ベッドがツインかダブルか、部屋の向き、バスルームのかたちなどを、ぜんぶ頭に入れてコントロールするわけです。そのコントロールのさい、ベルマンを体験したおかげで具体的に部屋のスタイルが頭に入っていたことが、私の場合はすごく役に立ちました」
フロントになるための修業期間は、とくに決まっているわけではなく、そのときの“運”で配属されるのだが、いきなりフロントに立ったとしても、お客に提供する内容に何の知識もないままでは、部屋のコントロールなどはとうてい無理ということになる。八道さんのような遠回りは、実はフロントとしての財産を蓄積する時間となって生きてくるというわけだ。
宿泊客は、レストランの営業時間、モーニングコールなどについて、すべてをフロントに連絡してくる。そして、最後の支払いの場面で、滞在中の不満がフロントに向かって爆発するというパターンが、けっこう多いはずだ。したがって、そのクレームに対応するのはおろか、部屋のコントロールなど新人にとっては無理というものなのだ。
実は、ロビー側から見るとフロントの裏側の部屋に、部屋割り全体のありさまが見渡せる画面というか掲示板のようなものがあり、それを何人かのベテランらしい人がチェックしている光景を、私は八道さんに会う前に見せてもらっていた。ロビー側のフロントのうしろで、彼らが部屋のコントロールをしているのだという。そのコントローラーの指示のもとに、フロント係の新人たちは、目の前の宿泊客に対応している。そのお客にダブルルームを提供するか、ツインルームを提供するかについてのコントローラーの選択などが、そうやって新人に伝えられているというわけだ。

(後略)