「ベルマン・二宮修平 - 村松友視」文春文庫 帝国ホテルの不思議 から

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「ベルマン・二宮修平 - 村松友視」文春文庫 帝国ホテルの不思議 から

ドアマンが玄関の外側で迎えたお客を、タッチするように引き継ぐのが、ベルマン。賓客などに対しては、専門の係が玄関外まで迎えるケースもあるが、荷物を持ちはこぶのはベルマンの仕事だ。レストラン担当やフロント担当ならば、仕事の場はそれぞれの限られた空間になるが、ベルマンはホテル全体をフィールドとする仕事であるから、ともかくよく“歩く”ことが特徴といってよいだろう。
それに、フロントでチェックインしたお客を、本館の近い部屋ならば短い時間ですむが、タワー館のもっとも遠い部屋へ案内するのは十分ほどかかり、その間の会話もむずかしいテーマとなってくる。会話というものも、ホテルというクールなサービスを基本とする空間であり、それも帝国ホテルという特別な環境となれば、ベルマンにとってかなり厄介な問題であるにちがいない。
そのあたりの意識のもちようを、ベルキャプテンの二宮修平さんから、いろいろと教えてもらうことになった。二宮さんは、文科系のソフトさと体育会系の敏捷さを合わせもつ感じのタイプで、たのもしいベルマンとして私の目に映る人だった。
フロントから部屋へ.....このながれがスムーズに行なわれる場合はよいとして、週末などは、チェックインされたお客を、すぐに案内できねケースもある。部屋の準備が終わっていないこともあるが、そういう日はお客の数にくらべてベルマンの数が圧倒的に少ないので、他のお客を案内したベルマンがフロントへもどっていないこともある。十分以上も待たされる宿泊客も出てくるのだ。「そんなときは、ベルマンが“お待たせいたしました。ご案内いたします”と言った時点で、お客さまはすでに苦情のモードに入っていらっしゃるようなわけで.....」と二宮さんは苦笑いした。そんなケースにおける、エレベーターの中の重苦しい空気が、私の頭に浮かんだ。
基本的にはフロントから部屋まで案内するのがベルマンの仕事だが、外国人客の中にはベルマンを待つよりはと、部屋の鍵を受け取って自分で部屋へ行く人が多いという。
日本人客には、ホテルの事情を納得して待つ人が多い。それでも、ながく待たされればそのあとにやはり不満が残る。刻一刻の時の中に生じる何らかの事情によって、序盤における宿泊客の気分が左右されてしまうのだから、ベルマンは神経が休まらぬ任務ということになる。
そして、外国人客にしても日本人客にしても、十人十色プラス一人十色というわけだから、相手の気分を瞬時において察知し、そのときの相手にふさわしい対応をこなすには、そのベースとしての人間学が必要となってくる。
実際、お客の中には、“声をかけてくれるな”というオーラを強く出す人もいるし、そのように見えて実は会話を求めている人もいる。同じ人でもその日そのときの相手の心理状態によって気分は千差万別だ。フロントから部屋までの五分、十分のあいだでそれを見きわめるのは至難のワザだが、ベルマンはその至難のワザを仕事として求められることの連続だ。ともかき、四十五名の陣容による帝国ホテルのベルマンは、そんな状態で任務をこなしているのである。「一人前のホテルマンになりたければ、先ずベルマンを経験しろ」という言葉は、まさに強い説得力をはらんだ至言と言ってよいだろう。

(以下略)