1/2「濹東挿絵余談 - 木村荘八」河出書房新社 生誕135年・没後55年永井荷風 から

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1/2「濹東挿絵余談 - 木村荘八河出書房新社 生誕135年・没後55年永井荷風 から

今度濹東綺譚の挿画を引受けるに当って初めからぞっくりと全篇の原稿が完成されていたことは挿画冥利に尽きる喜びでした。その代り、又初めから背水陣を覚悟の、難しいことでしたが、それは当り前として - 予[か]ねて私は挿画は本文に対する、浄瑠璃節の大夫と絃の関係でければならないと思っていますので、出来るならば大夫より以上と云ってもいい程に絃の挿画師はテキストに通暁しなければなりません。大多数の場合、殊に新聞の時には、これは只望む可[べ]くして、実現出来ないことです。昔の小説例えば金色夜叉なり何なりを今とり上げて描くならば、テキストに通暁出来ますけれど、毎日新らしく繰り出される作者の本文を即座に咀嚼し且[かつ]これに通暁するという芸は許されません。まして受身の立場の挿画家には本文の末始末は予見できませんので、完成されたるテキストを扱う場合の他には、我田引水の云い方で云えば、挿画のファイン・プレーは至難に近づく。
ところが今度の私の場合の濹東綺譚は、どうでもファイン・プレー、少くもフェア・プレーで乗り切らないことには、挿画師の一分立たぬコンディションに置かれました。予[あらかじ]めテキストは初めから終り迄ぞっくりと揃って、どうこれに通暁しようとままに、そこに与えられていたのですから。
云い代えればこれで多少ともましな挿画が出来なければ、絵は止めるに如きません。それが何とか見られる絵が出来ればつまりテキストのコンディションがよかったからと云うことになります。
- 私はこいつは背水陣だと考えて、捻ったわけです。音[ね]を上げますが、相当苦心しました。



近頃の人は玉の井を単独で切り離して東京の「玉の井」とだけ熟知しているようです。しかし地名に寺島と云う字がある以上は、この「寺島」には隣りの「吾嬬」や「隅田」や「小梅」や「牛田」「関屋」「堀切」などと続いて、どうしても川(隅田川)と切離しては単独に考えられず、永井さんも常にそうして川の東、墨東として扱って居[お]られます。
向後は知らず、今日迄のところ、あの辺は、-本文の中でお雪の抱主に云わせてある言葉「ここはもともと埋地で、碌に地揚げもしないんだから」-一帯に塵捨場だったようなじめついた溝川のほとりへ持って来て、バラバラぶちまけたように家を建てたほんの新開地に過ぎず、これは伏見稲荷のある横町の辺から、その一劃だけ小暗く、周囲一円の娼家の真中に、ぽつんと、しもたやの包囲されている一個所があります。そこの家々の新旧取り交ぜた木口や、屋のむねのそれぞれの方向を見ると如何に出鱈目に初めここへ家を建てたかということがよくわかって面白い。一軒の家のむねに対して、九十度はおろかのこと、その対屋が、四方から、或は三十度、或いは五十度位い、そんな区々[まちまち]の角度を以って卍に交錯しています。これは遠近法の扱いが難かしいのでちょっくらちょいとは絵にも描けない位い。定めしこれを飛行機から俯瞰したならば、百足[むかで]のうねりのような屋のむねに見えて奇観を呈することでしょう。玉の井全体の町が。
なんでも本所深川(殊にその砂村)、一帯に江東そのものの土地柄が、昔から、農民には二階建の許されにくかったのを、ここばかりは水が出るので、二階差許しになっていたとかいう、ハンディキャップの有った一区劃で、あの辺に請地と云う名があります。これは浮地だと云うことです。浮地だの蒟蒻島[こんにゃくじま]。近くはこの玉の井-「玉の井」では、汚物塵芥の上にフワフワと建った名の感じは出ませんけれども、つい近頃まで、闇夜に人が町外れで撲殺されたまま二三日わからずにいたり、或いは首と胴体のバラバラになった死骸が近所の溝に浮ぶと却ってぴったりしたような、迂散臭い土地です。今でも町筋が矢庭に暗くなるあたり「......お雪の家の在る第二部を貫くかの溝は、突然第一部のはずれの道端に現れて、江島屋という暖簾を下げた洗湯の前を流れ、許可地外の真暗な裏長屋の間に行先を没している。」こう本文に敍述された界隈は、無気味な妖気が感じられます。