「短編と短篇 - 荒川洋治」忘れられる過去 から

f:id:nprtheeconomistworld:20210202082704j:plain

 

「短編と短篇 - 荒川洋治」忘れられる過去 から

一般的な文章と、小説をはじめ文学的な場所に置かれた文章で、使われることばがちがうものがある。たとえば「先鋭」は文学的な文章では「尖鋭」となることが多い。「回復」は「カイ[難漢字]復」、「興奮」は「昂奮」、「奇跡」は「奇蹟」、「技量」は「技倆」、「注解」は「註解」、「絶賛」は「絶讚」になりやすい。すべてではないが、その傾向がある。このような文字の使い分けはどうして起こるのだろうか。
どちらにしても意味は同じだが、文学的な文章では、情趣を深めるために古くから使われるものを選びがちになるので、常用漢字以外の文字が多くなる(また大半は画数が多いものである)。これにすると「常用」からはずれるから、特権的な雰囲気が生まれる。「尖」も「昂」も「註」も、おとなになったら一度使ってみたい、という感じのものだが使いこなすのはむずかしい。
長編小説、中編小説は「編」だが、短編小説は「短篇」にする人が多い。視覚的な理由もあるだろう。「短編」だと、へん(偏)をもつ漢字二つが隣りあうので、ことばが見えにくい。また短編小説は、人物、背景などいろんなものがそろった長編、中編とはちがって、人生の断片をきりとるもの。つくり方が普通の小説とはちがう。むしろ俳句や詩に近い。短編小説は「小説とは別の世界のもの」という意識が暗に働くのか。ぼくも原稿では「短編」ではなく「短篇」を選んできた。受け取った記者は「編」にしてもよいですかときいてくる。新聞は原則として常用漢字の「編」を用いる。
ただ、ものを書く人は、文字の「美意識」に凝りがとりはらわれたときに、一人前になる。あまり文字のイメージにこだわるのは「青い」証拠。若いときにはなにも知らないから「短編」、少しすると、おませになって「短篇」、落ち着いてくると「短編」に、もどる。これがひとつの成長の、しるしである。「編」という一般的な文字をつかって、りっぱなものを書く。それが書き手の「技倆」だ。文字のこだわりからぬけでたとき、文章も考えもおとなになるのだろう。文章は、文字ではなく内容なのだから。
関連でもうひとつ。「本当」ということばがある。夏目漱石森鴎外は「本当」と書く。国木田独歩内田魯庵らは「真実」と書いて「ほんとう」とよませる。嵯峨の屋お室は「真当」と書いた。室生犀星高見順は「本統」を使ったときがある。他にもいろいろ、見つけた。
戦前までは、「本当」にはいろいろなものがあったのだ。
ちなみに「ほんとう」ということばは「本途」(ほんと・本来の道筋の意)が変化したものともいわれる。よく話しことばで「ほんとう」をつづめて「ほんと」というけれど、「ほんと」のほうが、ほんとうなのかもしれない。