(巻三十七)秋ちかき心の寄るや四畳半(芭蕉)

(巻三十七)秋ちかき心の寄るや四畳半(芭蕉)

5月28日日曜日

曇り。朝家事は洗濯、部屋干し。昼前に生協へ出掛けてお米ほかを調達いたす。割れ煎餅が20円値上げだ。

細君が新聞広告から『裁判官の爆笑お言葉集』という本はどうか言ってきた。十年以上前に初版が出たらしく息の長い娯楽本のようだ。図書館ネットで予約したら113人待ちと出た。3冊保有しているらしいが一年待ちだな。

随筆、紀行、雑文で当たりが減ってきた。やむを得ず短篇小説に手を出し始めたが読むとなると太宰あたりになってしまう。どなたの作品が面白いのか見当もつかない。

昼飯喰って、一息入れて、コチコチし、今週の立て替え分と来月のお小遣いの合計30457円の計算メモを作り、レシートを入れた封筒に貼り付けて請求準備をしてから散歩に出掛けた。

先ずトモちゃんを訪ねた。腹が空いていたようですぐに駆け寄ってきた。スナックをあげていると、柵の後ろで黒猫がミャーミャーいっていたが、こちら側には来ない。来ないならあげない。

図書館で『法学教室5月号』を借りた。貸出の棚に『教科書名短篇・人間の情景-中公文庫』があったので一撮しておいた。

そこから稲荷に回り、都住3に参る。クロちゃんは不在だったが、フジちゃんに呼び止められた。フジちゃんとコンちゃんは警戒心が強い。猫の性格もそれぞれだ。生き方もそれぞれだ。

願い事-涅槃寂滅、一発コロリンです。

で、

「短編と短篇 - 荒川洋治」忘れられる過去 から

を読み返してみた。

「短編と短篇 - 荒川洋治」忘れられる過去 から

一般的な文章と、小説をはじめ文学的な場所に置かれた文章で、使われることばがちがうものがある。たとえば「先鋭」は文学的な文章では「尖鋭」となることが多い。「回復」は「カイ[難漢字]復」、「興奮」は「昂奮」、「奇跡」は「奇蹟」、「技量」は「技倆」、「注解」は「註解」、「絶賛」は「絶讚」になりやすい。すべてではないが、その傾向がある。このような文字の使い分けはどうして起こるのだろうか。

どちらにしても意味は同じだが、文学的な文章では、情趣を深めるために古くから使われるものを選びがちになるので、常用漢字以外の文字が多くなる(また大半は画数が多いものである)。これにすると「常用」からはずれるから、特権的な雰囲気が生まれる。「尖」も「昂」も「註」も、おとなになったら一度使ってみたい、という感じのものだが使いこなすのはむずかしい。

長編小説、中編小説は「編」だが、短編小説は「短篇」にする人が多い。視覚的な理由もあるだろう。「短編」だと、へん(偏)をもつ漢字二つが隣りあうので、ことばが見えにくい。また短編小説は、人物、背景などいろんなものがそろった長編、中編とはちがって、人生の断片をきりとるもの。つくり方が普通の小説とはちがう。むしろ俳句や詩に近い。短編小説は「小説とは別の世界のもの」という意識が暗に働くのか。ぼくも原稿では「短編」ではなく「短篇」を選んできた。受け取った記者は「編」にしてもよいですかときいてくる。新聞は原則として常用漢字の「編」を用いる。

ただ、ものを書く人は、文字の「美意識」に凝りがとりはらわれたときに、一人前になる。あまり文字のイメージにこだわるのは「青い」証拠。若いときにはなにも知らないから「短編」、少しすると、おませになって「短篇」、落ち着いてくると「短編」に、もどる。これがひとつの成長の、しるしである。「編」という一般的な文字をつかって、りっぱなものを書く。それが書き手の「技倆」だ。文字のこだわりからぬけでたとき、文章も考えもおとなになるのだろう。文章は、文字ではなく内容なのだから。

関連でもうひとつ。「本当」ということばがある。夏目漱石森鴎外は「本当」と書く。国木田独歩内田魯庵らは「真実」と書いて「ほんとう」とよませる。嵯峨の屋お室は「真当」と書いた。室生犀星高見順は「本統」を使ったときがある。他にもいろいろ、見つけた。

戦前までは、「本当」にはいろいろなものがあったのだ。

ちなみに「ほんとう」ということばは「本途」(ほんと・本来の道筋の意)が変化したものともいわれる。よく話しことばで「ほんとう」をつづめて「ほんと」というけれど、「ほんと」のほうが、ほんとうなのかもしれない。