「大衆社会論争大概 - 向井敏」傑作の条件 から

f:id:nprtheeconomistworld:20210210084003j:plain

 

大衆社会論争大概 - 向井敏」傑作の条件 から

山崎正和はさきに『柔らかい個人主義の誕生』(初刊昭和五十九年、中央公論社。のち、中公文庫)で一九七〇年代という時代の分析を試みて、社会的な共通目標の消失という、日本の社会が史上はじめて当面した状況のなかで、人びとが外から与えられた目的に従うのではなく、みずからの意思と才覚を頼りにそれぞれ好ましいとする目標をさぐり当てようとする現象が社会生活のあらゆる側面に起きていることに注目をうながし、これは成熟した文化をもつ望ましい社会の到来を予兆するものであるという判断を示した。
その望ましい社会とは、著者自身の言葉を借りていえば、「抽象的な組織のシステムよりも個人の顔の見える人間関係が重視される社会」、「多くのひとびとが自分を『誰かであるひと〈サムボデイー〉として主張し、それがまた現実に応へられる場所を備へた社会」をいうが、山崎正和のこうした見解に対して、西部邁鮎川信夫、石川好らが異を唱え、先年来、大衆社会論争ともいうべき形をとりつつある。山崎正和はまだそれに直接反論はしていないけれども、機会あるたびに自説の正当性の確認と強調につとめているから、これはやはり論争とみなしてさしつかえないであろう。
異論のなかには、社会的な共通目標の消失という状況をもたらした大きな要素の一つとして山崎正和のあげた「国民の意識に落す国家のイメージの縮小」という論旨をとらえて、その所説全体を国際関係論の文脈に強引に引きずりこみ、『柔らかい個人主義の誕生』は外国という他者を排して「隣人だけの世界」に安住する「鎖国の感情」の産物だとする石川好「鎖国の感情を排す」(「VOICE」昭和六十年七月号)のような、単なる言いがかり、あるいは反論のための反論としか思えないものもあるが、山崎説批判として最も手ごわいのは、西部邁鮎川信夫の発言に代表される「大衆」不信論であろう。つまり、みずからの意思と才覚で、文化の成熟をもたらし得るような目標の選択が「大衆」にできるわけがないというのである。たとえば、画一化に背を向けて差異化を重しとする最近の現象を論じて西部邁は言う(「差異化という魔語の正体」。「VOICE」昭和六十年八月号)。

(大衆は)なにが面白いか面白くないか、つまるかつまらないかを判断するのは自分だと構えている。そんなところに厳格なルールがうまれるわけもない。自分が面白いと思わぬようなルールはさっそく改変するにしくはないということになる。そして、伝統・歴史の基盤が瓦解したところに確たる自己が樹立されるはずもないので、面白さの自己判断はたよりなく動揺する。不確かな自己を至上の地位に押上げたあげく、差異化が自動的につづけられる仕儀となる。

こうした批判だけを聞くと、山崎正和の説はまるで砂上に築かれた城のように思えもしようが、事実はもちろんそんな脆い説ではない。それというのも、「大衆」の頼りなさということ自体がその立論の自明の前提として、あるいはむしろ必須の要素として組みこまれているからである。

「何か面白いことはないか」と自問する人間は、すでに半ばは、自分がその「何か」を知らないことを告白してゐる。

いはゆる大衆性の「危険」が、かつては凡俗の退嬰にあつたのにたいして、いまではより多く、珍奇と非常識と自己分裂に移りつつある。

こうした念押しが『柔らかい個人主義の誕生』の随処で行われているのであって、さきに引いたような批判はそれをペスミスティックな方向に拡大したものにすぎない。山崎正和が異論や批判に直接反論することをしないできたのは、すでに確認ずみのことをあらためてむしかえす愚を嫌ったせいであろうか。
このほど編まれた対談集『柔らかい個人主義の時代』(初刊昭和六十年、中央公論社)は、政治、外交、文学、科学技術、人類学などの諸分野での「柔らかい個人主義」への傾きを検討しようという意図のもとに、それぞれの専門家とかわした議論を集成したもので、今日という時代の意味を考えるのに恰好の書だが、ここでも「大衆性」の危険や「人間性」のマイナス面を強く意識した発言が目立つ。一例を引けば、大岡信との対談で「同質集団の腐敗」を論じて言う。

「顔の見える他人」というものをあまりにも直接的に頼りすぎると、文学が狭いものになると思いますね。つまり、仲良しグループの中の陰語になっていく危険がある。(中略)下手をすると、無数の仲間ことばの大集合になってしまうという危険はあります。

山崎正和はいわゆる「大衆」のこうした不確かさ、頼りなさをよく承知していながら、それ以上に「大衆」の自由な意思による目標選択を重く見るのだが、そこにはこの道を経るほかに成熟社会に至る道はないという、何か必死な思いがこめられているようにも思われる。