1/2「ポスト大衆社会論の構図 - 上野千鶴子」ちくま学芸文庫 〈私〉探しゲーム(欲望私民社会論) から

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1/2「ポスト大衆社会論の構図 - 上野千鶴子ちくま学芸文庫 〈私〉探しゲーム(欲望私民社会論) から

このところマーケッターたちの間で、「大衆・小衆」論がさかんだ。電通藤岡和賀夫さんが『さよなら、大衆』(PHP、一九八四年)という挑発的なタイトルの本を刊行して一石を投じて以来、博報堂の研究グループがただちに『「分衆」の誕生』(日本経済新聞社、一九八五年)でこれに応じた。他方で経済学者の西部邁さんが『大衆への叛逆』(文藝春秋、一九八三年)であえて「大衆社会論」を世に問い、山崎正和さんは『柔らかい個人主義の誕生』(中央公論社、一九八四年)で大衆の変貌を「顔の見える大衆社会」として論じた。これに学者、文化人、マーケッターたちの反論、批判、応酬が参入して、時ならぬ「大衆社会論」ブームなのである。
もちろんこの「大衆社会論」ルネサンスは、六〇年代のアメリカ流大衆社会論のたんなるリバイバルではない。むしろ「大衆社会は変貌したか?」 - 言いかえれば「大衆社会は終わったか?」「大衆は分解して小衆になったのか?」 - という問いをその根幹に据えている点で、内実は「ポスト大衆社会論」とでも言うべきものである。
「大衆・小衆」論が主として消費社会を対象としてマーケッターたちの間で闘われたのもおもしろい。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」でどちらにころんでもしょせんフトコロの痛まない学者に比べれば、マーケッターたちの関心はより切実だからである。彼らの問題意識は、六〇年代高度成長期までのマス・マーケットが、成熟消費社会の中で成り立たなくなったという危機感に根ざしていた。
大衆はほんとうに消滅したのだろうか? - 解釈のしかたは三とおりくらいある。
第一は、「大衆」もしくは「社会」の方は少しも変貌していない、変わったのは「解釈装置」の方だという可能性である。一九五〇年にリースマンが『孤独な群衆』を著わして以来、「砂のゆうな大衆」イメージはすっかり定着したが - その病理形態が「貴族主義的」大衆社会論のとらえる、互いに連帯はしないが模倣しあって一方向になだれこむ「暴徒のような大衆」イメージである - その見方は「集団は個人から成り立っている」という近代主義のタテマエを、額面どおり信じこんだ社会科学者の方の“まちがい”で、近代になってからだって人間は一度も「個人」になんぞなったことはなかった、という説である。「大衆」がのっぺらぼうに見えたのは「知識人」にとってだけではなかっただろうか。この「個人」は一度も「家族」から剥き出しにされたことはなかったし、フォーマル、インフォーマルな小集団の中にベッタリ生きていて、都会に出たら出たで、さっさとマチや企業にムラを作ってしまった。
山崎正和さんは「産業化時代の三〇〇年を通じて、われわれは一方に硬い戦闘的な生産組織を持ち、他方には漠然とした、隣人の顔の見えない大衆社会を持って、その中間にあるべき人間的な集団をまれにしか知らなかった」(山崎、前掲書、九四頁)と書く。氏の表現をもじれば「漠然とした大衆化社会しか知らなかった」のは、実を言うと「大衆」の方ではなくて「社会科学者」の方だったのじゃないだろうか、という疑いがきざしてくる。西部邁さんは、「知識人の使命」とばかりに爛熟消費社会の「義憤」を表明しているが、これも何やらありもしない幻影を作り上げて、ワラ人形狩りをやっているんじゃなかろうかという気がする。山崎さんは「われわれが予兆を見つつある変化」」が「大衆社会」に起きているというが、その「変化」はようやく「大衆」をとらえる枠組の方に起きていると言いかえてもいいのだ。「いじめ」の問題などは、私たちが逃げることもおりることもできない「顔の見える大衆社会」 - ただし「柔らかい」どころか「硬い」 - にどっぷり漬かっていることの証拠なのだから。
第二は「大衆消費」はたしかにオープン、ただしそれは消費者のサイドの変化によってではなく、作り手のサイドの変化によって引き起こされた、とする考えである。このコロンブスの卵のような説を唱えているのは、日本長期信用銀行エコノミスト(当時、現在東京工業大学助教授)、小沢雅子さんである。彼女によれば、高度成長期のマス・マーケットは、ただ一品種大量生産しかできないメーカーサイドの技術的制約によっていたと言う。消費者ニーズはもともと多様なものだが、かつては生産水準がこの多様性ニーズに追いつかなかった。技術革新によってメーカー側が「多品種少量生産」というフレキシブル・マニファクチリング・システムを導入するようになってはじめて、潜在的な多様化ニーズが顕在化した、とする。考えてみれば工場制生産以前は、どんなモノも、一点一点注文製作だったのだから、個別化対応は当然だった。流行現象はあったものの、江戸時代だって「柄ドメ」に見られるように「みんなと一緒」をきらう消費者の差別化志向はあったのだから、マニファクチュアもここに至ってようやく「前近代なみ」に到達したか、ということになる。メーカーサイドは生産管理も流通管理も煩瑣になる一方だとぼやくが、逆に考えてみればマス・マーケットの成立した時代の方が、過渡期の異常な時代だった、というふうに考え直すこともできる。