「病気のマナー - 赤瀬川原平」中公文庫 考えるマナー から

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「病気のマナー - 赤瀬川原平」中公文庫 考えるマナー から

久し振りに「入院」をしてきた。20代のはじめころ胃潰瘍で入院して以来のことだ。正しくは十二指腸潰瘍で、そのとき既に胃袋の3分の2を切り取っている。その手術は半身麻酔だった。直接の痛みはなあものの、腹に大穴を開けられ、太い電柱をぐいぐい押し込まれる感じで、脂汗が出た。
今回入院前の検査診療のとき、以前は半身麻酔だったと執刀医に話と「えっ!」と驚いていた。いまではそんな乱暴、とても考えられないことらしい。でもあの時代、それ以外に方法がないのだから、医師も患者もそこをくぐり抜けてきたわけである。
こんどの入院の前には内視鏡カメラを合計3回のんだ。ちょっとしたポリープならその内視鏡の操作で切り取れるらしいが、自分の胃には「過去」があるので、形の事情もあってちょっとムリらしい。
しかしこんどの検査診療の間「がん」という言葉は一度も聞かなかった。モニターに映る患部を指しながら「このコブは切らないと治りません」というふうにいわれる。そのコブの事情をもう少しはっきり聞きたいが、内視鏡検査を3回も受けるうちには、こちらもその空気を読んで察してしまっているわけである。
でも昔はその空気されも漏れないようにしていた。本人には絶対に感知させず、陰で家族にだけひっそりと告げていた。それが「がん」のマナーだった。その「秘密」があったので、いくつもの文学が生まれたりした。文学はいつも秘密を抱えて生まれてくる。いまはもうその秘密が消えてしまった。ということは医療技術がそれだけ進歩したということだ。検診中の患部が、モニターに明々白々に映し出されている。この世界では完全に可視化がおこなわれている。
さて治療だが、自分の胃には「過去」があるし、今回はどうしても全摘になるという。全部か。胃にはまだ未練があるのでちょっと躊躇したが、それはもう仕方がない。でも技術的には「腹腔[ふくこう]鏡手術」になるらしい。
腹腔鏡で全摘というと、元ソフトバンク監督の王さんだ。5年前にニュースでそれを知って、そんなことが出来るのかと驚いた。腹腔鏡手術というのはお腹に小さな穴をいくつか開けて、そこから内視鏡を差し込み、モニターを見ながら手術する。50年前なら夢のような方法だ。でも王さんはそれで見事に復活している。そうだ、自分も王さんになるんだ、と思うと自信が湧いてきた。偉大な選手はプレイ以外でも、その存在が力を与えてくれる。
手術は全身麻酔で眠っている間にすべてが終わっていた。50年前と比べたら雲泥の差だ。病気はなるべく遅れて罹[かか]った方がいいらしい。