「北斎のたくらみ - 朝井まかて」ベスト・エッセイ2020から

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北斎のたくらみ - 朝井まかて」ベスト・エッセイ2020から

私にとって北斎は、“親父どの”である。
『眩[くらら]』(新潮社、二〇一六年)という小説で北斎の娘、葛飾応為[おうい]を描いたからだ。応為は北斎工房の弟子でもあり、時には助手を務めながら数々の作品が生み出される場にいた。むろん、かの「富獄三十六景」の試し摺りが上がる現場にも応為はいただろうと、私は想像する。北斎や版元の西村屋永寿堂と共に、摺師の手許を固唾を呑んで見守っている。板木の上に置かれた紙の上を馬連[ばれん]が行き交う、ざっ、しゅっという音だけが響く。
家の中が静まり返っているのには理由がある。「富嶽三十六景」の出版は大博打であるからだ。華やかな役者絵や美人画などとは異なって、風景だけを描いた景色物は世間の人気を得にくく、出しても打ち切りになるのが常だった。たとえ北斎の名があっても、売れるとは限らない。
なにしろ、江戸者はオギャアと生まれた日から浮世絵や草双紙、読本に囲まれて育っているので、目が肥えている。仕事や金がなくとも馬鹿にされないが、俳諧や小唄、将棋の一つもできないと「野暮だ、あか抜けねえ」と見下げられる世の中だ。
そんな小うるさい庶民にウケてこなかった風景画を、コストの
かかる大判錦絵で、しかも三十六作品の揃物[シリーズ]で出版しようとしているのだから豪儀な話ではないか。これは伊達か、酔狂か。いや、西村屋は文政十二年(一八二九年)に起きた大火によって類焼している。「火事と喧嘩は江戸の華」と嘯[うそぶ]いてはみても、神田から出た火は日本橋に京橋、芝一帯をも焼き、後に江戸時代を通じても三指に入るほどの大火事とされる。
つまり西村屋は懐に余裕があって景色物を出すのではなく、進退窮まっているからこそ打って出ようとしている。ほぼヤケクソに近い。
この“イチかバチかの大勝負”であった「富嶽三十六景」は、見事に当たりを取った。諸方の人気を得て版を重ね、気をよくした西村屋は「三十六景」に十点を追加して四十六景にしたほどだ。応為もほっと胸を撫で下ろしたことだろう。
北斎にとっても、この仕事は非常に大きな意味を持つことになった。巨大な波を描いた「神奈川沖浪裏[かながわおきなみうら]」などは、世界で最も偉大な画家の一人へと北斎を押し上げることになる。むろん、数百年後にそんなビッグ・ウェーブが起きようとは当人が知る由もなく、しかもこの画業を成した時、北斎はすでに齢七十を過ぎていた。西村屋のような勝負心はさらさら抱かず、一人、澄んだ境地にあってあの夏富士「凱風快晴[がいふうかいせい]」も描いたのだろうかと思いきや、いやいや、あの親父どのに限ってと私は頭[かぶり]を振る。
いかほどキャリアを重ねようが、何せ自ら“画狂人”と名乗るほどの絵師だ。新しい画法、ジャンルに盛んに挑み、過去の実績や己の名など一顧だにしない。守りの姿勢を取らない親父どのにとって、この無謀ともいえる「富嶽三十六景」の出版はさぞ腕が鳴り、心躍るものであっただろう。

そんなことを思いながら、岩波文庫の『北斎 富嶽三十六景』を開いてみた。
掌の中で一見開きを繰れば、作品の解説がまた一見開き。絵と文章のリズムが心地よく、時々、北斎と応為父娘の暮らしを思い出したりして懐かしむ。また絵を見て、解説を読む。
激しくうねって砕け散る寸前の波濤、吹いて何もかもを舞い上がらせてしまう風、桶職人が揮う槍鉋[やりがんな]の音。疾走する馬の息遣いも聞こえるし、木場に漂う材木の匂いも感じる。いかに形にしづらいものを写し取ろうとしていたことか。北斎の飽くなき情熱を思い、今さらながら胸が震える。北斎の筆によって、束の間の造化(自然)と江戸の暮らし、人々の心までもが紙の上に永遠に刻まれた。
地図が付いているのも、本書の粋な計らいだ。どんな土地の富士が描かれているのかがよくわかる。そして各作品の解釈においても必ず、どこから見た富士なのかが丁寧に述べられている。おかげで富士山を巡る旅に出たような気になれる。地図を見ながら北斎が見たであろう土地の風や水、人々の賑わいまで味わう。
ところが、その場所からは決して見えないはずの富士もある。編者の日野原健司先生も、北斎にとってはどこから見た景色なのかは重要ではなかっただろうと指摘しつつ、それでも場所の特定についての推量の手は緩めていない。やがて、想像上の景色としか考えられないものも出てきた。
主人公はあくまでも、富士の山だ。画面一杯に、はみ出さんばかりに迫ってくる。けれど作品によっては遠景で小さい。男や女が、「ほら、ごらんな」と指を差すその果てでやっと気づくほどのアイコンだ。北斎は遠近、大小を取り混ぜて富士を登場させ、時には水面に映る鏡像を違えてまで、観る者に語りかけてくる。
おやおや、これはと、私は身を乗り出した。もう一度、四十六の景色を眺めてみる。なお嬉しくなってきた。制作順や発行順は未だ確定されていないものの、一点一点を鑑賞するだけでは見えない北斎のたくらみが私の目の前に立ち昇ってくる。


どうだ、面白ぇか。え、こっちはどうだ。
西洋画を研究し、その手法を採り入れることにも貪欲であった北斎は、一点透視画法も自己流に按配してしまう絵師だ。正しいかどうかよりも、絵として「それが面白いか」に創作のエネルギーが向くのである。どうやら「富嶽三十六景」は、現代の我々が考える写実的な風景画とは全く別物だと捉えた方がよさそうだ。
これは活き活きと自由に虚構[フィクション]を用いた、壮大な物語なのではないか。
物語性を感じてしまいのは、私が小説を稼業にしているからだろうか。それもあるかもしれないが、北斎は四十~五十代の壮年期、読本の挿画絵師として腕を揮った人だ。
読本はいわば小説の一種で、武士や上級町人のような古典の素養がなくとも楽しめる娯楽、庶民のエンターテインメントだった。天下泰平が続いたことで庶民の識字率も高まり、漢字は無理でも平仮名であればほとんどの者が読める。そこで振り仮名つきの読本が盛んに出版され、しかも当時は音読であったから、耳で筋書きを憶えてしまう門前の小僧もいただろう。
そのうえ物語には必ず絵がついていて、これが読者の読解力を助け、想像力を刺激する役割を果たした。文章と絵がセットの文化は現代にも受け継がれており、日本の新聞や雑誌に掲載される小説には今も画家やイラストレーターによる挿画が施されるのが常だ。
北斎はこの読本で挿画の腕を磨き、滝沢馬琴とも『椿説弓張月[ちんせつゆみはりづき]』などで組んだ。どんな挿画にするかは戯作者(小説家)がラフスケッチを用意するのが当時の慣いであったようだが、むろん絵師も原稿を読み込み、ラフに籠められた意図を汲みながらも自らの物語世界を絵によって繰り広げたのではあるまいか。
そこで、あの有名な事件にもつながる。馬琴が登場人物の悪人の口に草履を咥えさせよと指示したのに、北斎はそんな汚いものを口に★咥えせる法があるかと鼻であしらい、言うことをきこうとしない。馬琴は激怒して二人は絶交に至ったという逸話なのだが、互いにすでに名を成している大家同士であっても作品については一歩も引かず、真剣に大喧嘩したのである。
しかも北斎自身、戯作を手掛けたことがあるし、川柳が好きで仲間と連を組み、借金を申し込む手紙にも一流のユーモアが滲んでいる。天才のイメージから「孤高の」などと冠をつけられがちだが、娘の応為のまなざしを通せば、親父どのはいくつになっても軽妙で酒脱な江戸っ子そのものなのだ。

とりもなおさず、北斎はこの読本時代に物語のヴィジュアル化における試行錯誤を盛んに行なうことができたし、波や風の表現にも繰り返し挑戦している。それが「富嶽三十六景」に結実したのであろうし、かくも大きな虚構を繰り広げることができたのだ。
小説においてもしばしば誤解を受けるのだが、細部のリアリティがなくては虚構は成立しない。誰しも、それと気づかせない巧妙な嘘には酔いたいが、下手な嘘には興醒めをする。それは現代も江戸時代でも変わらない。なにせ、江戸者はエンタメにうるさい。
つまり北斎ほどの腕があっての「外し」や「嘘」が真[まこと]と混然一体となって初めて、観る者をワクワクとさせる遊び心が成立する。北斎はそれをわかっていて、「どうだ」と挑んだのではないか。四十六枚を通して観れば、その虚構性にも強弱がある。当然だ。静けさや小休止があってこそ、強さや大きさが引き立つ。
やっぱり、親父どの。たくらみなすったね。
私は『北斎 富嶽三十六景』をまるで読本のように楽しんで、山や雲や波、そして人々が小膝を打つ音を聞いて愉快になる。
ちなみに、編者の日野原先生とは二度、お目にかかったことがある。一度目は雑誌の対談で、二度目はまったく偶然に、私の地元である大阪で開かれた北斎展の会場だ。人波の中でふと気になって、振り向いた先生は目を丸くして驚いておられたけれど、声を掛けた私もびっくりした。研究者として実に誠実で真摯で、そして穏和なお人柄だ。またお目にかかりたいなあと思っていたら、本当に出会ってしまったのだ。小説に書けばリアリティに欠けると言われそうなことだが、現実ではしばしば起きる。
日野原先生と北斎は容貌が違うけれども、親父どのにも人を懐かせるような気風があったと思う。「富嶽三十六景」には、そんな朗らかなたくらみがそこかしこに凝らされている。