「灰になれ - 森絵都」ベスト・エッセイ2020から

f:id:nprtheeconomistworld:20210321084010j:plain


 

 

「灰になれ - 森絵都」ベスト・エッセイ2020から

先日、とある知人から手紙をもらった。後日に顔を合わせた際、その内容について触れたところ、「そんなこと書いたっけ」との返事。「eメールの場合は手元に残るから、下手なことを書くと、後から読み返して後悔する。その点、手紙はいいね。相手の元へ行ったきりだと思うと、自由にのびのび書ける」
そう言われてハッとした。たしかにeメールは手軽で便利でスピーディーだが、送信後もメールボックスから削除しないかぎりは自分の元に留まる。その「残る」ことへの煩わしさを、私たちは常にどこかで意識しながらキーを叩いているのかもしれない、と。
紙の手紙は相手に渡した時点で完全に自分の手を離れる。二度と戻ってこない。さっきまでは自分のものであった思いを相手に託して、そして、さようならだ。いつまでこの世に留まるかは送った相手次第ながらも、紙である以上、いずれは燃えて灰になる。
未来の空を舞う灰が透けて見えるようなその存在のあり方は儚くも潔い。
送るだけでなんとなくすっきりする。そのような効能も紙の手紙にはありそうだ。eメールのように後から送信ボックスを覗いて「なんでこんなこと書いちゃったのか」と落ちこむこともなく、書き手はあくまですっきりしたままその後の人生を歩んでいける。
出したら出しっぱなし。その特質ゆえの罠も、しかし、紙の手紙には潜んでいる。思い出したくないから背を向けたまま歩み続けているものの、ひとたび振り返れば、誰しもけっこう恥ずかしい手紙を過去にしたためているのではないか。
少なくとも私にはある。
幼なじみのヒロちゃんに手紙を書いたのは、まだ文字を覚えたての五つか六つの頃だった。おそらく人生初のその手紙は〈ぜっこうじょう〉だった。もう一人の幼なじみ、ケイちゃんをめぐる三角関係の末、私はヒロちゃんを見切るに至ったのだったが(絶交状を私に教えたのは姉だった)、驚いたヒロちゃんはママに相談し、ヒロちゃんのママはうちの母に相談し...結局、なんだかものすごく怒られて終わった記憶がある。
中学生の時には仲間と一緒に〈予告状〉をしたためた。給食の時間、クラスの担任が「プリンが一つ足りない」騒ぎ立て、誰かが二個取ったに違いないと決めつけてしつこく犯人捜しをしたことに腹を立ててのことだった。そんなに生徒を疑うのなら、こっちも受けて立とうではないか。犯人になりすました私たちは「次はクレープをいただく」との予告状を担任宛に送り、結果、給食にクレープが出た日は物々しい厳戒態勢のもとで配膳が行われることとなった。
高校時代、つきあっていた彼と別れた際には、「これからもがんばって夢を追いかけてね」と思いをこめて綴った手紙を渡し、「『夢』って漢字が間違ってたよ」と指摘された。
どれもこれも燃えて灰になれ、と思う。