「極楽往生 - 結城昌治」 中学生までに読んでおきたい哲学2-悪のしくみ から

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極楽往生 - 結城昌治」 中学生までに読んでおきたい哲学2-悪のしくみ から

おシゲさんとおヒロさんは大の仲よしだった。同じ都営アパートの三階に住み、おシゲさんのほうが三つ年上だが、ふたりとも四歳になる女の子の孫があった。
シゲ七十八歳、ヒロ七十五歳である。シゲの息子夫婦も共稼ぎで、ふたりは留守番と孫の守りをする以外に何もすることがなかったから、孫をつれて互いの部屋を訪ね合ってはいつまでもお喋りをつづけるのが愉しみだった。たいてい嫁の悪口と孫の自慢話である。
そんなとき、孫たちは勝手に近くの公園に遊びにいってしまい、あたりが薄暗くなったことに気づくと、ふたりの婆さんは慌てて孫を探しにいった。
「女の子のくせに、どうして外でばかり遊びたがるのかしらね」
「嫁のしつけがいけないからですよ」
「嫁が出好きのせいだわ」
「きっとそうよ、うちの嫁ときたら、日曜日だって家にじっとしていないんだから」
ふたりはブツブツ言い合いながら公園へむかう。いつものことである。
しかしたまにはしんみりすることもあって、死んだ亭主の思い出を語り合ったり、どうせ死ぬならポックリ死にたいとか、これ以上生きていたってろくなことはないなどと、次第に涙ぐんでしまうこともあった。
ヒロが死んだのは、そんな湿っぽい会話のあった翌日だった。買物に出ようとして三階の階段から足を踏み滑らせ、かねて望んでいたようにポックリ逝ったのである。ヒロはもともと足が弱かったし、階段はコンクリートで、おそらく打ちどころが悪かったのだろう。近所の医者が駆けつけたときには、すでに息がなかった。
「まるで眠っているようだ」
みんなそう言って遺体に合掌した。安らかに満ちたりた死顔だった。
通夜には大勢あつまった。泣いてばかりいる者もいたが、隅のほうで酒ばかり飲んでいる者もいた。
「七十五まで生きていたんだから、まあおめでたいほうだろう」
寿司ばかりつまんでいる男はそう話していた。
いちばん悲しんだのはシゲだった。眠りこけてしまった孫を膝の上に抱きしめ、落窪んだ眼をくしゃくしゃにさせていつまでもいつまでも泣きつづけていた。死んだヒロが可哀そうだからではなく、仲のいい友だちを失ったのが本当に悲しいのだった。年上のシゲのほうが早く死ぬはずなのに、年下のヒロが先に死んでしまったことも本当に悲しかった。生き残っている自分が、何か悪いことをしているように思えるのである。

葬式は翌日おこなわれた。花輪の数は少なかったが、会葬者は通夜よりも大勢きた。金色の唐草模様をつけた霊柩車に、遺族な親戚の人たちが乗る車が三台つづいて停まっていた。
焼香を終えた人々は、出棺を見送るために霊柩車の近くに集まった。母親につれられてきた子供たちの姿も多かった。腕に喪章を巻いた親戚の者らしい世話役が、その子供たちにバラ買いのキャラメルやチューインガムを配って歩いた。
シゲに手をひかれた孫のミチコも、キャラメルとセンベイをもらった。
やがて、ヒロの遺骸は霊柩車に納められた。
「セッちゃんのおばあちゃんは、どこへつれていかれるの」
ミチコはシゲにきいた。死んだということがどういうことなのか、いくら考えてもわからなかった。
「極楽へ行くんだよ」
「ゴクラクって?」
阿弥陀さまがいるところさ」
「アミダさまって?」
「ホトケさまだよ。蓮の花がいっぱい咲いていて、そこへ行けば神経痛もなおるし、何の心配もなくのんびり暮らせる。とてもいいところさ」
「それはどこにあるの」
「西のほう、ずっと西のほうにあるだよ。おばあちゃんも早くおヒロさんのように極楽へ行きたい」
「死ぬとみんなゴクラクへ行くの」
「悪いことをした人は地獄へ落とされて恐ろしい目にあうけど、おヒロさんやあたしみたいに苦労ばかりしてきた人は極楽で楽をさせてもらえる。こんなに年をとっても、まだ苦労しているんだからね-」
シゲは死んで楽になりたいと言った。そうすれば死んだ亭主にも会えるし、ほかにも待っている人が大勢いるはずだった。
出棺の準備も済んで、ヒロの息子が小さな声で近所の人たちに挨拶をした。
いよいよ火葬場へむかうのである。
「ミッちゃん-」
霊柩車の助手席から体をのりだして、セッちゃんが得意そうに手をふった。
ミチコは、こんなに愉しそうなセッちゃんをみたことがなかった。金ピカの自動車に乗って、まるでセッちゃんまでゴクラクへ行くみたいだった。
霊柩車は静かに滑りだし、火葬場へむかった。セッちゃんはいつまでも手をふっていた。
ヒロの葬式は無事に終わったが、それから三日経って、今度はシゲが三階の階段から転がり落ちて死んだ。ヒロのときと同じように、医者が駆けつけたときは息がなかった。
しかしヒロの場合と違って、今度は警察官が何人もやってきて事情を調べた。シゲはヒロのように足が弱くなかったし、ヒロの事故死で階段の上り下りには注意していたはずだからである。続発した転落事故死に、刑事が疑いを抱いたのは当然だった。
「おシゲさんが誰かに怨まれていたというようなことはありませんか」
刑事は出入りの魚屋や八百屋を訪ね、熱心に聞き込みをつづけた。
その頃、ミチコは公園の砂場で祖母のために砂の墓をつくりながら、手伝ってくれるセッちゃんに話しかけていた。
「おばあちゃんはきっと喜んでるわ。おじいちゃんにもセッちゃんのおばあちゃんにも会えるし、とてもゴクラクへ行きたがっていたんだもの......」
しかしミチコは、おばあちゃんを楽にしてやるために階段から突き落としたことは喋ってやってもいいけど、金ピカの自動車に乗りたかったことまで話していいかどうか、それはまだ迷っている最中だった。