(巻二十九)おとろへしいのちに熱き昼の酒(結城昌治)

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(巻二十九)おとろへしいのちに熱き昼の酒(結城昌治)

5月10日月曜日

芋虫次郎が今朝無事に青芋虫になった。芋虫三郎はまだ黒芋虫だが葉の裏側で生き延びてていた。

芋虫の一夜の育ち恐しき(高野素十)

次郎の頭にはポツンと小さな目がある。次郎の脳に私の顔はどのような幻として映っているのか?と、私は自分の脳の中で次郎の脳の内のことを考えた。

覗く目を逆に覗きし金魚鉢(杉山そうしゅう)

午前、血圧の診察へ出かけた。混雑が予想されたので9時前に到着した。 クリニックの入口には“接種受付一時中止”と貼り紙が出ていた。

10人待ちくらいで9時20分に診察室へ呼ばれ、先生が血圧測定し120-76と出た。私に時間を掛けるつもりは毛頭ないようで、看護師にさっさと処方箋の指示をして2分で終わり。診察時間2分は標準のようだ!

9時35分に薬局に到着し、15人待ちの番号札を受け取り着席。10時ころお薬を頂き帰途につく。途中のコンビニで昼食用のサンドウィッチと餡パンを買う。10時半前に帰宅。毛布干し、お湯沸かし、昼食準備などなど致して、サンドウィッチを食し紅茶を喫して、なんとなく生きていて、正午となる。

難しく考えないで麦青む(深町明)

芋虫も葉っぱを食って生きている。

午後は座椅子でごろ寝。本日は三千六百歩で階段は2回でした。

願い事-叶えてください。

端居して遠きところに心置く(後藤夜半)

「心身論と唯脳論(抜書) - 養老孟司ちくま学芸文庫 唯脳論 から

《 腎臓が尿を作る。それは機能である。その過程は、物理的化学的に実証できる。しかし、神経細胞から心が生じるのを、物理や化学で実証できるか。そう頑張る人もあるかかもしれない。

これもおそらく、範疇の誤認である。心は「物」ではない。しかし、尿は「物」である。オシッコなら、検査のために採ることができる。しかし、心はそうはいかない。検査のために、心を一かけら採ってくれ。そんなことを誰が言うか。血液なら、検査のために採取できる。それなら、検査のために、「循環を一かけら」採ることができるか。

「物」か「物でない」かは、あんがい難しい。われわれが「物」であることを自明とするような「存在」が、かならずしも「物」でないことは、解剖学の用語を考えただけでもわかる。たとえば「口」や「肛門」は、その典型である。口はむしろ機能を示す用語であり、そのことは、「入口」「出口」といったことばに、よく示されている。「口は消化管の入口である」といった定義は、同語反復の典型である。また、解剖学実習で、「肛門だけ」切り取って重さを測れ、と言われた学生は、よく考えると、往生するであろう。よく考えない学生なら、周囲の皮膚を切り取ってくるであろうが、それはもちろん、ダメである。肛門に重量はない。なぜなら、肛門に「実体」はないからである。これはいわば、消化管の「出口」である。》