(巻二十九)皸(あかぎれ)の妻おのれ諸共あはれなり(石塚友二)

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(巻二十九)皸(あかぎれ)の妻おのれ諸共あはれなり(石塚友二)

5月9日日曜日

目覚めが宜しくない。世事が眠りに染み込んでくるのだろう。

世事はみな人にまかせて花と鳥(井上井月)

の境地に凡人は至れない。

家事の少ない午前中を座椅子でごろごろして過ごす。

午後は散歩と雑貨の買物をした。箪笥用防虫剤やコロコロと云った掃除用具、水道の簡易浄化栓などを買ったのだが五千円近くになった。歩数も五千歩くらい行けばよいのだが、四千歩に届かず。三千八百歩で階段は2回でした。紫陽花がそろそろかな?この花も終わりは惨めだ。

紫陽花の疲れつぷりや夫の顔(川西ハルエ)

願い事-叶えてください。

「心身論と唯脳論(抜書) - 養老孟司ちくま学芸文庫 唯脳論 から

唯脳論は、この素朴な問題点について、それなりの解答を与える。脳と心の関係の問題、すなわち心身論とは、じつは構造と機能の関係に帰着する、ということである。この点を具体的に考えてみよう。脳と心の関係に対する疑問は、たとえば次のように表明されることが多い。

「脳という物質から、なぜ心が発生するのか。脳をバラバラにしていったとする。そのどこに『心』が含まれていると言うのか。徹頭徹尾物質である脳を分解したところで、そこに心が含まれるわけがない」。

これはよくある型の疑問だが、じつは問題の立て方が誤まっていると思う。誤まった疑問からは、正しい答が出ないのは当然である。次のような例を考えてみればいい。

循環系の基本をなすのは、心臓である。心臓が動きを止めれば、循環は止まる。では訊くが、心臓血管系を分解していくとする。いったい、そのどこから、「循環」が出てくるというのか。心臓や血管の構成要素のどこにも、循環は入っていない。心臓は解剖できる。循環は解剖できない。循環の解剖とは、要するに比喩にしかならない。なぜなら、心臓は「物」だが、循環は「機能」だからである。

たとえばこの例が、心と脳の関係の、一見矛盾する状態を説明する。脳はたしかに「物質的存在」である。それは「物」として取りだすことができ、したがって、その重量を測ることができる。ところが、心はじつは脳の作用であり、つまり脳の機能を指している。したがって、心臓という「物」から、循環という「作用」ないし「機能」が出てこないように、「物」から「機能」である心が出てくるはずがない。言い換えれば、心臓血管系と循環系とは、同じ「なにか」を、違う見方で見たものであり、同様に、脳と心もまた、同じ「なにか」を、違う見方で見たものなのである。それだけのことである。》