「「自然死」のしくみとは - 中村仁一」やはり死ぬのは、がんでよかった から

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「「自然死」のしくみとは - 中村仁一」やはり死ぬのは、がんでよかった から

自然死とは、ひと言でいうと「餓死」することです。餓死というと、とても悲惨なイメージありますが、砂漠で喉が渇き、食べるものもなく、もがき苦しんで死ぬのとはわけが違います。「飢餓」「脱水」という経過は同じですが、「死に際」のそれは、いのちの火が消えかかっているわけですから、食欲もなければ、喉も渇かないのです。
人間は水と食べものがなければ、生きていけません。しかし、生命力が衰えてくると、その必要性がなくなるのです。身体が「何もいらない」と拒絶するからです。そして、脱水状態になると、意識レベルが下がり、“脳内麻薬”のβ-エンドルフィンが分泌され、ウトウトとしたいい気持ちになります。また、血液も濃くなってくるので、こうしてまた意識レベルが下がり、ボンヤリとした状態になります。
死が近くなって何も食べなくなっても、体内の臓器は動いています。そのために肝臓と筋肉に蓄えられているグリコーゲンが使われます。しかし、これはすぐに消費されてしまうので、代わりに脂肪がエネルギー源となります。脂肪は分解されると、水と炭酸ガスとケトン体になるのですが、このケトン体という物質には鎮静作用があります。
つまり、飢餓状態になると、β-エンドルフィンとケトン体によって、苦しむどころかスヤスヤと眠るようになるのです。
また、最期の時が近づくと、呼吸状態が悪くなります。息が何十秒も止まったり、肩で息をしたりします。初めて見る人は「うわー、苦しそうだ」と思うかもしれませんが、顔をよく見ると穏やかなのです。全然、ゆがんだりしません。本当に苦しかったら、顔がゆがむはずです。端から見ると苦しそうに思えても、本人は苦しくないのです。
呼吸というのは、空気中の酸素をとり入れて、体内にできた炭酸ガスを放出することです。これが充分にできなくなるということは、一つには酸素不足、酸欠状態になること、もう一つは炭酸ガスが排出されずに体内に溜まることを意味します。この酸欠状態の時も、実はβ-エンドルフィンが出ます。そして、炭酸ガスにも麻酔作用があるのです。
このように死に際の飢餓状態には、二重三重もの「楽に死ねる」しくみが備わっています。これを邪魔しなければ、人間は穏やかに死んでいけるのです。これが「看取りの原則」です。
ところが、現代医療はこの看取りの原則を破り、点滴を注射したり、人工呼吸器をつけたりして穏やかな死を邪魔しています。昔は現在のように病院に入院することもなく、自宅で亡くなっていましたから楽に死ねていたのです。
今や自然死などというものは風前の灯火[ともしび]ですから、医者ですら自然死がどういうものかを知りません。だから、たとえ在宅死であっても、死ぬ間際に点滴をしたりするわけです。何もしなければ医者も患者を「餓死させるんじゃないか」と不安に思うし、家族にしても何かしてほしいと願うからです。
特に病院に入院している場合は「病院にいるのに何もしないって、どういうこっちゃ」て家族から不信の目で見られてしまいます。たとえ、病院の医師が自然死の効用を知っていたとしても、病院でそれを実行することは不可能でしょう。
私は同和園で多くの自然死を見てきましたから、自分の場合もほとんど苦しまずに逝けると思っています。家族にも自然死がいかに安らかなものか、常々、話をしていますから、穏やかに見送ってくれるものと信じています。

 

「老人は乾いて死ぬのがいちばん苦しまない - 中村仁一・久坂部羊対談」思い通りの死に方 から

中村:一生懸命に訪問診療を行い、自宅での看取りをやっている開業医の先生方も、話を聞くと、最後まで何もしないのは非常に難しいそうですね。患者に長く点滴を続けると、そのうち血管が潰れて針が入らなくなりますが、それでも今は大量皮下注射という手法があるので、治療していることになる。本当に無駄な抵抗ですが、それさえやれば家族は満足するし、医者自身も「何もしない」という罪悪感から免責される。
久坂部:無駄な抵抗を避けるには、あらかじめ家族を教育しておく必要があります。だから私は、最期の看取りを迎える前に、これから何が起きるかをレクチャーします。
「まず、徐々に食べたり飲んだりしなくなりますが、点滴は薄い砂糖水みたいなものですから、しても意味がないし、心臓や腎臓に負担をかけるので、かえって寿命を縮めることにもなるんですよ。血圧が下がると意識がなくなります。最後は下顎[かがく]呼吸をするので苦しそうに見えますが、本人は意識がないので心配ありません」と。-そうやって前もって知識や情報を与えておくと、落ち着いて対処する人が多いですね。
中村:それが最期の看取りにたずさわる医者の役目ですよね。私も、「意識レベルが落ちるし、脳内モルヒネが出たりするので、本人はまったく苦痛を感じませんよ」と家族の心配を取り除くことを心がけます。
たしかに一見すると苦しそうに息をするので、何も知らない人は黙って見てはいられないでしょう。いくら「心配ない」と言っても、「だって苦しそうじゃありませんか」と動揺する人はいるから、何度でもくり返し説明しなければなりません。
たとえば、一滴も水を飲まずに脱水状態になると、やはり熱は出ます。自動車でも、エンジンを回すと熱が出るから、冷却水がないとオーバーヒートするのと同じです。人間も体温を保たなくてはいけませんし、また心臓を動かすにも呼吸をするにもエネルギーがいるわけだから、水を飲まずに冷却不足になれば高熱を発することもあるんです。39度を超えることもあるので、そうなると見守っている家族は大騒ぎになりますね。だから、その居室に行くたびにいちいち「熱は出ているけど苦しくないから心配ない」と説明することになるんです。
久坂部:手間のかかる面倒な仕事ですよね。家族に「点滴してください」と言われたら、何も考えずに「わかりました」と答えれば「ありがとうございます」と感謝されて終わるわけですから。そこで「いや点滴はしないほうがいいですよ」と説得して理解させようと思ったら、最低でも一時間ぐらいかけて喋ることになる。でも、その時間をおしまずに、勇気を持って説明しなきゃいけないと思います。それでも理解が得られないことはありますが、わかってくれる家族も少なくありません。その場合は、本当に穏やかな最期になるんですよね。

中村:ただ、まずは医者自身がそれを体験していないと、家族を説得することはできませんよね。点滴をしないと患者がどうなるのかを知らなければ、自信を持って話すことはできません。でも病院に勤めている医者は、まず自然死を経験する機会がありませんよ。
久坂部:そこが問題です。一度でも経験するとわかりますが、実際、在宅医療をやっている医者仲間は、みんな「老人は点滴なんかしないで、乾いて死ぬのがいちばん楽そうだ」と言いますよ。
中村:そう。でも体験がないとそれは言えないし、何もしないと手抜きをしているような罪の意識を持ってしまう。本当に何もしない穏やかな自然死を知っていれば、たぶん相当な迫力で家族を説得できると思いますよ。昔は今みたいに医療が死に際に濃厚に関与していなかったから、みんな自然に死んでいたんです。それが不幸な死に方だなんて、誰も思わなかった。
久坂部:そうですよ。うちは私が医者なので、よく「ご家族も安心でしょうね。ふつうの家庭は医者がいないから不安です」と言われますが、昔は死ぬまでは医者なんか来なかった。
中村:死んでから、死亡を確認に来た。健康保険のない時代は、そんなにいちいち医者にかかっていられませんから。死んでからでも、家族から話を聞いて「はいはい、心筋梗塞ですな」とか言いながら死亡診断書を書いてくれました。郷里の長野では「芸者を上げる」と同じように「医者を上げる」という言い方をしたんです。死ぬまでは、医者を家に上げることはない。それまでは、家族だけで看病していたわけです。
久坂部:医者とお坊さんのどっちが先に着くか、ぐらいの話ですよね。その方が効率もいいし、経費もかからないし、患者の苦しみも少ない。いいことばかりですよ。それなのに、いろいろな医療技術が進んだせいで、「手当てすれば寿命が延びる」「また元気になる」という思い込みが広まった。その結果、医者がいないと不安を感じるようになった。つくられた無駄な不安ですよね。
中村:そうです。ほんの40~50年前まで、そんな不安はなかったんだから。