「思想としての死の準備-終りに(巻末一部抜書) - 山折哲雄」

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「思想としての死の準備-終りに(巻末一部抜書) - 山折哲雄

一昨年のことですが、東海大学病院で「安楽死」事件がおこりました。その報道をきいたとき、私は当然のことがおこったと思いました。

だがその後、担当医がきびしく処分されたと知らされて驚きました。それだけではありません。医学界も世間も、「安楽死」の処置をほどこした担当医をつよく批判していると知って、さらに驚きを新たにしたのです。

私は常日ごろ、死ぬときは安楽に死にたいものだと思っております。威厳をもって死にたいとは思いませんが、安楽には死にたいと思っております。

自分自身が安楽に死にたいと思っているのですから、人さまにたいしてもできれば安楽に死なせてあげたいと願っています。それが身内の者である場合は、なおさらそうなります。

東海大事件の担当医も、おそらくそう考えていたのではないでしょうか。担当医だけではありません。安楽死の処置をほどこされた患者の家族もそう考えたのだろうと思います。「早く楽にしてやって下さい」という訴えには切実な響きがこもっています。

それなのに、なぜこの担当医にたいして医学界や世間や、そしてマスコミまでがあれだけきびしく批判したのでしょうか。それが私には、まずわかりませんでした。

批判の第一点は、患者の「生前の意志」という問題にかかわっているのであるらしい。最近はやりの言葉でいえば、リビングウイルとか自己決定権とかいうのだそうであります。患者にその意志をたしかめることなしに、担当医が勝手に「塩化カリウム」を注射してしまったというわけであります。

だが自己決定とは、いったい何なのでしょう。かりに臨死の状態になった場合の延命治療をあらかじめ辞退しておくこと、としておきましょう。そこでいよいよ回復の可能性がなくなったとき、医者は患者の意志をくんで治療を打ちきり、つづいて患者が息を引きとる。この場合、患者はなるほど延命治療の辞退という「自己決定」をしているわけですが、しかし最後の場面ではその処置を医師の手にゆだねています。自分の手で自分の生命を処置しているわけではありません。

とすれば、いうところの自己決定というのは、結局のところ半分の自己決定でしかないことにならないでしょうか。ここであえていえば、私は、自分がいかに生き、いかに死ぬかの問題を、自分の責任において考えたいと願っております。はたしてそんなことができるかできないかはわかりませんが、しかしともかくそのようにありたいと願っています。

生きることと死ぬことを等価に考えて、その方法を自分の責任において決定したいと思っています。だからそれが実行できたとき、生死にかんする自己決定がはじめて重視されるのだと考えたいのです。

しかしながら今日われわれは、自分の責任において生きてきたように、自分の責任において死ぬことが思い通りにならない状況ねなかで生きているのではないでしょうか。自然死や事故死で死ぬとき以外は、たいてい病気になって病院で死ぬ運命にさらされているからです。その病院での最後の段階で、意識がもうろうてし、やがて植物人間に移行していったとします。延命治療をほどこすか、ほどこさないかの決定を迫られる場面です。

そうなったらもう仕方ありません、運を天にまかせるほかはない、と私は思っています。日進月歩する先端医療のこと、家族のこと、治療費のことなどを考えていったら、一寸先は闇であります。

そのうえ、生前にいくら自分の意志を表明していたとしても、自分の死出の旅を最後に処置してくれるのは医者という他人であります。自己決定などとは、とんでもない話ではありませんか。リビングウイルといくらしゃれたことをいっても、それは所詮、半分の自己決定権でしかないことはいうまでもないからです。

しかし私がいま関心を持っているのは、それとはちょっと別のことであります。それは、いよいよのとき、自分の手で自分をどのようにして安楽に死なせることができるのかという問題であります。自分の責任において生きてきたように、自分の責任において安楽に死ぬにはどうしたらよいのかということです。

それは、いわれるまでもなく途方もない難問です。しかしその方法がみつからないかぎり、私の死生観は一貫しないような気がしてならないのですから仕方がありません。息を引きとる場面をすべてを医者にまかせていたのでは、私の死生観がいうことをきかないのであります。

そこで、あえて誤解をおそれずにいうのでありますが、私はその最後の段階で、断食わして死にたいと心から願っています。断食のはてに枯れ木のようになって死ぬことができれば、それが最高だと思っているのです。そしてそれが、あたかも自然死であるかのように家族や知人の目に映れば、極楽往生うたがいなしと思っているのであります。

ただそれでも、心配が一つだけあります。最後の段階で点滴の処置をほどこされ、もはや自分の力ではどうすることもできないようになった場合です。

そのときは、万事休す、というほかはありません。