「昭和53年の熱狂(ヤクルトスワローズ初優勝への軌跡) - 真神博」Numbersベスト・セレクションⅡから

「昭和53年の熱狂(ヤクルトスワローズ初優勝への軌跡) - 真神博」Numbersベスト・セレクションⅡから

その瞬間、エース松岡は、マウンド上でピョンピョンと二度、三度両手を高くかざして飛び上がった。その松岡に大矢捕手が走り寄って抱きついた。二人に覆いかぶさるように、ウイニングボールを掴んだ大杉が駆け寄った。センターから若松が、ライトからマニエルが、レフトから杉浦がダッシュしてくる。内野陣が作った歓喜の輪の中に広岡監督はじめコーチ陣が引き込まれ、胴上げが始まった。
宙に舞う広岡監督の顔が、カクテル光線の中で紅潮して見える。松岡も、若松もこの歓喜の輪の中にあって、なぜかボロボロと大粒の涙を流し続けていた。
「あのとき、プロに入ったときから苦労したことの数々が頭に浮かんできて、涙がボロボロこぼれてしかたなかった。泣きながら、だれ彼となく抱き合っていました。」
小さな大打者・若松は、こう述懐する。思えば若松は、プロ野球不毛の地といわれ、プロ野球選手は育たないというジンクスがあった北海道の出身だ。大きな大会での優勝経験もなく、甲子園には出たものの、多くの北海道の高校チームがそうであるように1回戦で負けた。都市対抗にも出場したが、これも補強選手としてだった。加えて、168cm(これもサバを読んでいるという説もある)という小柄な体。はたしてプロでやっていけるのか、という周囲の陰口もあった。これらの声を、たぐいまれなバッティングセンスと猛練習ではねのけ、球界を代表する大打者にまでなったのである。

松岡のつけていた17番という背番号は、『悲運』の代名詞のように言われていた。というのも、チームが低迷を続けていた時代から独りエースとしてマウンドを死守してきたからにほかならない。快速球と鋭い変化球では球界でも、一、二を荒らそうとの定評がありながら、チームが弱いために当然受けるべき栄光や賞賛には無縁の日々が続いた。9回の1死まで巨人を無安打に抑えながら、味方打線の援護がなく、結局逆転負けした試合は、松岡の『悲運』を象徴している。
若松、松岡らの選手たちがそれぞれの思いで歓喜の涙にむせんでいたとき、高さ3mのフェンスを乗り越えてファンがグラウンドになだれ込んだ。スワローズファンにとっても長い『忍従』のときから解き放たれた瞬間であった。弱いチームを応援し続けるのは口で言うほど簡単ではない。職場ではプロ野球の結果を話題にする同僚を横目に、ひたすら口を閉じ、家庭では子供に「また負けたね」と冷ややかに言われる。「今に見ていろ」と思わないではないが、それも長い月日になると諦めが先に立つ。が、しかし、心中立てのような心境で、チームが可愛くていかたがない。遂げられない思いに似て、秘めた思いは静かに熱く燃える。そして、いつの日かこの思いが弾け、一瞬の光芒を放つときを夢見るのだ。
選手もファンも涙にむせんだスワローズ初優勝は、時に昭和53年10月4日、午後8時50分だった。

 

この年、スワローズが優勝するなどと予想した人は誰もいなかった。なにしろ球団が昭和25年に創設されて、優勝の前年、昭和52年までにAクラスに入ったことすら3回しかなかったのだ。その昭和52年には、球団創設以来最高の2位になったが、1位とは15ゲームもの大差をつけられてのものだった。首脳陣も選手も、優勝などはほとんど意識しない中でシーズンがスタートした。しかし、昭和51年のシーズン半ば、荒川監督から広岡監督にバトンタッチされて1年半、広岡イズムがチームに浸透しつつあるときでもあった。この年から、のちに西武で監督をすることになる森がコーチに加わり、ジャイアンツV9の頭脳が生かされることにもなった。
選手の構成もベテランから若手まで切れ目がなく、隙のないチームができ上がりつつあった。このメンバーに加えて、広岡式の猛練習が選手の意識を徐々に戦闘集団のそれに変えていった。
「なにしろすごい練習でしたよ。広岡イズムを浸透させようとして、キャンプインしてから一日も休まず練習しました。ペナントレースに入ってからも練習は一日も欠かしませんでした。移動日も例外ではありません。移動の前か後に必ず練習しました。常にディフェンス中心の練習でしたね」(佐藤孝夫コーチ=当時)
当時の練習のすごさを、いまは鉄鋼関係の商社でサラリーマンをしている、抑えのエース・井原はこんなふうに話している。
「初めて経験する激しい練習でした。密度が濃いんです。自主トレのときからランニングでタイムチェックされ、300~400mの中距離のインターバルがえんえんと続く。フィールディングも何度も何度もやらされて、きつかったですよ。キャンプの前に80kg以上あった体重が、終わりのころには75kgになりました。好きなビールを一滴も飲まなかったせいもありますが、練習で絞られたんですね。肥る体質の僕には、画期的なことでした」

この年、スワローズが優勝するなどと予想した人は誰もいなかった。なにしろ球団が昭和25年に創設されて、優勝の前年、昭和52年までにAクラスに入ったことすら3回しかなかったのだ。その昭和52年には、球団創設以来最高の2位になったが、1位とは15ゲームもの大差をつけられてのものだった。首脳陣も選手も、優勝などはほとんど意識しない中でシーズンがスタートした。しかし、昭和51年のシーズン半ば、荒川監督から広岡監督にバトンタッチされて1年半、広岡イズムがチームに浸透しつつあるときでもあった。この年から、のちに西武で監督をすることになる森がコーチに加わり、ジャイアンツV9の頭脳が生かされることにもなった。
選手の構成もベテランから若手まで切れ目がなく、隙のないチームができ上がりつつあった。このメンバーに加えて、広岡式の猛練習が選手の意識を徐々に戦闘集団のそれに変えていった。
「なにしろすごい練習でしたよ。広岡イズムを浸透させようとして、キャンプインしてから一日も休まず練習しました。ペナントレースに入ってからも練習は一日も欠かしませんでした。移動日も例外ではありません。移動の前か後に必ず練習しました。常にディフェンス中心の練習でしたね」(佐藤孝夫コーチ=当時)
当時の練習のすごさを、いまは鉄鋼関係の商社でサラリーマンをしている、抑えのエース・井原はこんなふうに話している。
「初めて経験する激しい練習でした。密度が濃いんです。自主トレのときからランニングでタイムチェックされ、300~400mの中距離のインターバルがえんえんと続く。フィールディングも何度も何度もやらされて、きつかったですよ。キャンプの前に80kg以上あった体重が、終わりのころには75kgになりました。好きなビールを一滴も飲まなかったせいもありますが、練習で絞られたんですね。肥る体質の僕には、画期的なことでした」

こうした猛練習に加えて、広岡イズムのもうひとつの特徴は、ベテランも若手も区別しない公平さ、そして基本をおろそかにしない厳しさにあったようである。
これは若松など主力選手にも同じで、すでにプロに入ってひとかどの実績を持っている選手でもようしゃはしなかった。
「守備練習から、スローイングまであらためて教えられました。考えてみれば、高校から社会人、プロと投げ方なんか教えられたことがなかった。僕はバッティングさえ良ければいいと思っていましたからね。それが、キャンプのときに『お前、そんなんで他のチームへいったらレギュラーで出られると思っているのか』といわれてね。カチンときましたよ。『なにいってやがる』と思い、それからしばらく口もきかなかったんです。それからは黙々と自分のことだけやっていました。ところが、センターへのコンバートはセンターラインの強化であることが分かり、また『若松は良くやっている』という監督の話がスポーツ新聞に出る。そんなことでだんだん乗せられていったようです」
と若松が回想するように、とくに中堅、ベテラン選手たちが監督の厳しい姿勢に反発を募らせていた。

4月1日、昭和53年のペナントレースがスタートした。スワローズにとっては、久しぶりに迎えた本拠地での開幕戦だった。対戦相手は広島カープ。神宮は4万3000人の観衆で埋まった。
スワローズの先発は、松岡という大方の予想を裏切って、広島に強い安田だった。
「やあ、嬉しかったですよ。開幕投手は初めてですからね。うちには松岡という大エースがいたから、自分には縁のないものだと思ってましたしね。僕はヒジに故障があり、例年春先はそのヒジの具合が悪いんです。試合ではさすがに緊張しました。でも僕は、プレッシャーがかかるといい結果が出るタイプなんです」
安田は広島の先頭打者高橋慶をショートフライにうちとると、すっかり落ち着き広島打線につけいる隙を与えない。
1回裏、ヒルトンが右中間二塁打で出塁。水谷のバントで三塁へ。若松がすかさずセンターへ大きな犠牲フライを打ち上げて先制する。好投を続ける安田が、5回ギャレットにソロホーマーを浴びて追いつかれると、6回裏ヤクルト打線が火を噴く。水谷が内野安打で出塁すると、若松は倒れたが、マニエルがセンターオーバーの大三塁打を放つ。大杉もレフト前タイムリーで続く。この回計2点。結局3-1で幸先よく開幕戦をものにする。若松、大杉、マニエルがそれぞれ打点をあげ、左のエース安田が広島打線を5安打に封じ込んでの勝利は、この年の躍進を予感させるに十分だった。
とくにヒルトンの活躍が目を引いた。極端に屈み込んでボールを待つ、独特のクラウチングスタイルは、「あんな格好でよく打てるもんだ」と評判はよくなかった。しかし、大リーグを御払い箱になり、バット一本持ってユマキャンプにテストを受けに来たこの助っ人は、新天地での働きに生活の全てがかかっていたのだ。打っては球に食らいついていき、守っては右に左に良く動き、走っては頭から滑り込み、ハッスルプレーの見本のような攻守を続けた。夏過ぎまで3割5分を上回る打率を残し、文字通り牽引車の役割を十二分に果たした。
さらにこの試合で目を引いたのが、安田の魔球だ。もともと安田は七色の変化球を操る変化球投手だったが、ユマで新しい変化球をものにしていた。この球は打者の手もとで一度浮き上がった後、ストンと落ちる。安田はこの球を『バラシュートボール』と名付けていた。春先の成績が例年今一つだった安田が新魔球を武器に完投したのだから、チームの士気はいやがうえにも上がった。
翌日は広島とのダブルヘッダーだったが、第一試合は松岡が完投勝ちした。第二試合は先発の会田が広島打線に捕まったが、ロングリリーフした井原が、ギャレットにホームランされたもののその1点に抑え切って快勝した。ヒルトンは第一試合3ランを含む5打点、第二試合にも一発を放り込む大活躍だった。こうして神宮での開幕戦はスワローズの3連勝に終わった。開幕3連勝は、実に20年ぶりのことだった。

しかし、開幕3連勝も束の間、この年の4月は次第に負けが込み、4月9日から22日まで2引き分けを挟んで7連敗を喫す。結局、4月は8勝10敗2引き分けで4位に終わった。
息を吹き返したのは5月に入ってからだ。とくに5月12日の静岡草薙球場での大洋戦は、『飛燕の舞』といまでも語り草になるほどの猛爆発を見せた。1回、若松が四球で出ると、ヒルトンがタイムリー。マニエルが四球で出ると今度は大杉が3ラン。大洋のエース平松はあっという間に4点をとられた。5回、杉浦のタイムリーなどで3点。凄まじいのは次の6回で、永尾のヒットが導火線になり、代打伊勢がセンターバックスクリーンに2ランホーマー、若松が右中間二塁打、角もセンターオーバーの二塁打で続く。ヒルトンがヒット、マニエルもライト前ヒット、大杉内野安打、杉浦四球、大矢内野安打、伊勢ヒット。伊勢は1イニング2安打の記録をつくる。そして若松がバックスクリーンへ特大の3ラン。この回さらに角がヒットをうち、何とこれで1イニング11本の安打を記録し、11点をとったのだ。この回の攻撃時間だけで50分もかかった。この試合、結局ヤクルトは21安打で19点をとり、投げては鈴木が6回まで大洋を2安打に抑えて、快勝した。
鈴木は春先右ヒジの炎症で、腕が上がらなくなり出遅れていたが、この試合に先立つ5月4日、中日4回戦に完投勝ちしてから波に乗り、5月は5勝をあげ、月間MVPに輝いた。5月14日には、前年、王に世界新記録の756号を打たれた敵討ちとばかりに、その王を完全に封じ込めて、巨人戦で完封勝利を記録した。長身の鈴木は、ジャンボと呼ばれたが、投げる球は癖球で、直球はナチュラルにシュートして沈むのが特徴だ。この試合、王もファウルフライと二ゴロ2つに切ってとられた。沈む球に巨人打線はまったくタイミングが合わず、16の内野ゴロを打たされ、「うちの打者は、当てるだくの『お嬢さんバッティング』になっている」と長島監督を嘆かせた。
6月は井原の月だった。5月を15勝5敗4引き分けという驚異的な成績で乗り切ったスワローズは、3位で6月を迎えた。
井原投手は快速球が持ち味の投手で、速いばかりでなく球質が重いことでも知られていた。ずんぐりした体型、寡黙で、休みには本ばかり読んでいるというプロの選手としては異色の存在でもあった。
この井原が6月に3連勝を記録した。投手の3連勝というのは珍しいが、6月10日、梶間をリリーフして勝ち投手になると、次の試合の6月14日には、代打伊勢の値千金のサヨナラヒットが出て、会田をリリーフして5回を投げた井原に勝ちが転がり込んだ。さらに1日置いた16日、対巨人戦。
「この頃の僕は、インコースの速い球一球で打者を牛耳れると思っていた。高めの速い球と速いスライダーが僕の持ち球でした。143kmのスライダーが投げられた。最近は落ちるスライダーなんて言いますが、本来浮き上がりつつ鋭く曲がるもんです。この巨人戦で、最後の打者になった、河埜選手に投げて空振りの三振にとった球は、僕の生涯で最高のスライダーでした。文字通り浮き上がりながらスライドしていった」(井原)
6月は井原が月間MVPに輝き、チームも11勝4敗1引き分けという驚異的な勝率で乗り切った。井原が3連勝したとき、巨人を抜いて、待望の首位へ踊り出たのだ。

7月20日、前半戦の最終試合を10-7(大洋戦)で快勝して、ヤクルトは球団創設以来初めて首位で折り返し点を通過した。しかし、2位巨人とはゲーム差なし、勝率で6厘差しかなかった。
オールスター明けの中日3連戦には負け越し、6月10日以来守っていた首位の座を明け渡すことになったが、選手たちはこれまで、食事から基本練習まですべてにわたって厳しく干渉する『広岡式管理』に、「反発することをエネルギーに、戦っていたようなもんですよ」(当時の主力選手の一人)。たとえば伊勢大明神と呼ばれた、代打男、伊勢は、
「前に在籍していた近鉄では100試合以上に出ていたし、やれる自信もあった。福富も船田もそうだ。試合に出たいというストレスをいつも感じていて、それがたまに出るゲームで爆発したんだね。一球を、一打席を大事に打とうという気持ちが強く、それで集中力が出たようだ」
と語っている。
エースの松岡は、6月1日に勝ったものの6点を失った。以来1ヶ月まったく使われなかった。一軍からも外された。球場に来ても登板のチャンスは与えられず、ブルペンで黙々と投げるだけの日が26日も続いた。
「なぜだろう、なぜ出してくれないのだろうと悩みましたよ。一種見せしめのようなところもあったのか。選手からして見るとイヤ味にしか見えないのです。まあ、勝つためには左右のエースである僕と安田を掌握しなければ、という思いが監督にはあったのでしょう。いまになれば監督の意図はよく分かるし、技術的にもこの期間があって僕は蘇ったのです」
もう一人のエース安田も、辛い時期を経験した。登板間隔を十分開けて満を持してマウンドに上がった安田が、いきなり4点を献上、KOされたことがあった。安田は「調整に失敗してしまった」と新聞記者に話した。その話がなぜか翌日の新聞には「いまの投手起用はムチャクチャだ。こんなことをしていると殺されてしまう」という談話になって載ったからたまらない。スワッ、首脳陣批判、と周囲は騒然となった。もともと安田ははっきりものを言うタイプで、思ったことを包み隠さず、相手が監督でも言うところがある。この時は堀内ピッチングコーチが間に入って事なきを得た。しかし、いまだこの間の真相は謎のままだ。広岡監督が、一言多い安田を牽制するために、新聞記者を使って書かせたのだという、うがった説を唱える人もいる。
いずれにしても、こうして松岡、安田の両エース、そして主砲の若松も広岡・森の掌の中へ入っていったのである。

チーム内部の不協和音と調子の下降で、快進撃を続けた5、6月とは対照的に7月は8勝8敗2引き分けと停滞し、8月は10勝11敗6引き分けとチームは低迷した。救いは引き分けが多く、少なくとも負けなかったことである。しかし8月20日には大洋に大敗して、首位巨人に4・5ゲーム差をつけられた。
首脳陣への反発をエネルギーにして戦ってきたかに見える個性派集団は、この最大のピンチをどう乗り切ったか。
天王山は8月26日からの神宮での対巨人3連戦だった。この試合にひとつでも負ければ巨人にマジックがつくというドタン場に追いつめられたのだ。ここで踏ん張ったのが弱投といわれた投手陣だった。第一戦の相手投手は堀内、ヤクルトはエース松岡にすべてを託した。2回裏マニエルがヒットして堀内攻略の糸口をつかみ、杉浦が左中間に三塁打を放って先制した。足の速くないマニエルが懸命にホームに駆け込み、杉浦も三塁まで果敢な走塁を見せた。大矢のスクイズは外されたが水谷がヒットして一、三塁、松岡が自ら犠飛を打ち上げて2点をもぎ取った。こうなると松岡のピッチングが冴えわたる。終わってみれば6四球こそ与えたが、3安打に巨人打線を完封したのだ。
第二戦は4ー4の引き分け。第三戦は鈴木が先発して7ー5で7回までリードしていたが、8回無死三塁のピンチを迎えた。ここでリリーフしたのは前日の先発安田だった。迎えるのは巨人の誇るグリーンナップ。ところが安田はこの強力打線を手もなくひねった。張本サードフライ、王ファーストフライ、シピンもサードフライだった。絶妙のピッチングとはこのようなものかと5万5000人の満員の観客をうならせたものだった。
これで完全に勢いを取り戻したヤクルトスワローズは神がかりのような逆転勝ちを続け、一気に頂点へと駆け上がることになるのだ。
「8月にチーム状態が低迷してくると、逆に選手が自主的にやるようになってきました。コーチが『ほどほどにしておけよ』というくらいでした。」(佐藤コーチ)
「文句は言わさないぞ、と全力でやってきたのだけれど、8月に落ちかけたときは、負けても一生懸命やった。この頃には監督の考えていることがようやく分かるようになっていました。激しい野球、そう、それが僕の性にも合っていると思い、全力でやるようになったのです」(若松)
9月17日、仙台での広島21回戦は、そういう意味で、大きな節目になった試合だった。5ー4と1点リードしたヤクルト8回の攻撃。若松が歩き、大杉がライト前に運んで無死一、二塁。打者は大砲マニエル。ここで出されたサインはなんとバントだった。大リーグ時代にも経験のないというマニエルのバントには、味方も驚いたが投手の江夏も驚いた。泡を食って捕るのが精一杯、足を滑らせて三塁に投げられない。満塁。このチャンスに大矢がきれいに三遊間を割って、2点を追加。これが効いてこの試合を快勝する。
「みんなが(本気で優勝しようという)その気になったのはチャーリー(マニエル)がバントをしたのを見たときからでしたね」(佐藤コーチ)

この試合でヤクルトにこれも初体験のマジックが出た。マジック14。マジックが出た直後は中日との4連戦。この年ヤクルトは雨で試合を流すことが多く、終盤は連戦に次ぐ連戦だったが、きつい連戦もものかは、奇跡とも言える勢いで乗り切っていった。
静岡での初戦、中日キラー鈴木が好投、打線も活発で10-1で快勝。第二戦は8回まで5ー5の同点。9回裏中日は抑えに星野をつぎ込んだ。先頭打者は船田。第一球、船田のバットが一閃、打球は左中間スタンドに吸い込まれた。
サヨナラ劇はなおも続く。翌9月20日、神宮球場。ヤクルト打線は中日の土屋、三沢両投手に抑えられ、8回まで4安打0点に封じ込まれていた。2点をリードされて9回裏を迎えた。この回、中日は万全を期して星野をマウンドに送っている。先頭の大杉が三塁線を破り二塁へ。続くマニエルもヒットして、一、三塁。ここで杉浦が打席に入った。1球目ボール、2球目もボール。
「本当にあのときボールの縫い目が見えたんですよ。こんなことはこのときと平成3年、巨人の木田からサヨナラヒットをときと2回しかありません」(杉浦)
星野の握りが見え、ストレートと確信した杉浦は、内角の速球をフルスイングした。打球はピンポン玉のように右中間スタンドにあっという間に消えた。逆転サヨナラ3ラン。しかし、奇跡はこれだけで終わらなかった。二度あることは三度ある、のたとえ通り、翌日も3-3の同点から9回裏に無死満塁から杉浦が犠飛を放って、サヨナラ勝ちし、三連続サヨナラ勝ちという離れ業を演じてしまったのだ。
「この頃、投手陣はみな、7回から後にリリーフに行こう、と言っていました。2~3点リードされていても必ず逆転してくれた。先発投手がリリーフ投手の救援を受け、風呂に入っていると、逆転したよ、と言ってくる。『風呂に入っていれば勝てるのか』と冗談を言ってました」(松岡)
あと2勝で優勝というときになって、突然プレッシャーがナインを襲った。神宮での巨人戦では、安田が先発したが、硬くなって思うようにボールが投げられない。打者も金縛りにあったように、バットがスムーズにでない。若松も大杉も満足にバットが振れず、堀内にかるくひねられた。
こうして迎えた10月4日。前の日、中日に得意の逆転勝ちをしてマジックを1とし、プレッシャーをはね除けたナインは、のびのびとプレーし、初回に4点を先制し、2回に3点、3回に1点と着々と加点して、勝利を不動のものにした。投げては先発松岡がまったく危なげない投球で中日打線を抑え込んだ。
「7回からは心地よい緊張感に包まれていました。何か胸にぐっと迫ってくるものがある感じです。1球投げるごとに快感が身体を走るのです。そしてあと何人、とそればかり考えていました。みんなの思いが、ひとつになって迫ってきて、あと何人と思うたびに胸が熱くなるような気分でした。球場全体が異様なムードで、観衆全部がヤクルトファンで、その人たちの気持ちがマウンドに押し寄せるように迫ってくるのです。何という盛り上がりだろう、と思いながら投げていました」(松岡)
こうして一瞬の光芒が煌めいた。東京音頭の大合唱の中で皆が泣いた。あれから14年目、再び『忍従』のときを過ごしたファンにあの煌めきが戻るチャンスが、今年まためぐってきたようだ。