「なごやかなる修羅場(抜書) -  高島俊男」本が好き、悪口を言うのはもっと好き から



 

 

「なごやかなる修羅場(抜書) -  高島俊男」本が好き、悪口を言うのはもっと好き から

石川淳丸谷才一大岡信・安藤次男『歌仙』(一九八一年青土社)を読む。おもしろかった。
俳諧は座の文芸であり衆人相会して作ってゆく過程にこそ興趣があるのだ、とは誰しも言うことである。人々がさんざ遊び楽しんだあとに記録として残された懐紙は、たとえば野球の試合がすんだあとのスコアブックみたいなもので、試合に参加した者にとっては興味つかないものであっても、試合を見ていない者にとっては、さしておもしろいものではない。
いやもちろん、七部集の歌仙などは、残された記録だけを見てもなかなかにおもしろいものに相違ないが、しかしそれは、座に加わって呻吟したり叱られたり、師の句を聞いて粛然と居ずまいをただしたりした人の昂奮にくらべれば、なにほどのことでもあるまい。
この本のおもしろさは(巻き終ったあとの「おさらい会の反省」ではあるけれどめ)歌仙の興行が進んでゆく過程を見せてくれているところにある。しかもここには、蕉翁にくらべればゴミみたいな器ではあるにせよ、鼻っ柱だけはめっぽう強いアンツグ宗匠と(いそいでことわるがこれはアンツグを☆する意味ではない。蕉翁と比較すればすべての宗匠はゴミみたいなものだ、の意である)、丸谷、大岡という、これももとより去来、凡兆ほどの手だれではないがそれなりに才気もあれば腕も立つ連衆がそろっていて、どうやら昭和な末世としてはこれ以上のものを望むのが無理、という程度の試合を見せてくれるのである。おもしろからぬはずがない。
この書の冒頭の一巻「新酒の巻」は、この三人の座へ、石川夷斎という、アンツグ宗匠より年も食っていれば格も上らしい横紙破りのならず者が☆入してきた巻いたもので、この客人は、佳句も示すが、また時には無法無天のとんでもない句も吐く。アンツグは無論自分のほうが一枚上だと内心思っているから、「ふざけるな」とどなりつけたいのだが、いかんせん相手が悪いので、時々横をむいて「まあこれが丸谷や大岡の句なら黙ってわたくしが返しただけで作り直しになる」なんぞと精一杯のいやがらせを言うくらいでじっと腹の虫を押し殺している。夷斎老人「これもモンロー・ウォークの後遺症ですかね(笑)」などとあさってのような挨拶をして少しもとりあわず......といったあんばいの、これまた別趣ある一巻なのであるが、その方の評判は割愛して、ここはもっぱらアンツグ・丸谷・大岡の連衆の一座を見ることにする。
ここのおもしろさの一つは、一座を形成する三人の関係、なかんづく宗匠と他の二人との関係であり、いま一つは批評者たることと実作者たることを一身に兼ねることのむずかしさ、言いかえれば宗匠たることのむずかしさである。
いったい、丸谷・大岡はこの宗匠をどう見ているのか、アンツグという人は、批評眼、あるいは批評のカンばかりが畸型的に肥大した宗匠だから、彼の批評に対しては両人も平伏せざるを得ない。一方、宗匠の創作能力や知識に対しては、彼らは心中必ずしも敬ハイ☆してはいない。軽んじている趣さえ見える。しかし宗匠であるから、表面はこれに対しても平伏している。アンツグはやや単細胞的なところがあるから、すっかり両人を統御しているものと思っている。
たとえば「鳥の道の巻」の名残裏[なごりうら]、アンツグの「五稜年少梅おほき春」に対して、丸谷が「どの駒で遠駆けをせん花盛り」とつけた。宗匠たちまち「花盛りなんて馬鹿なことがあるか、おんなじ遠駆けをするなら『花の雲』と言え」と一喝した。これなんかやっぱりすごい。「花の雲」というから遥かな距離感が出る。したがって駆ける駒のスピードが出る。「花盛り」では、馬は木につながれて足もとの草を食ってるか、せいぜい花の下をぽくぽく歩いているにすぎない。アンツグもとより右のような理屈をぐずぐず延べはしない。一瞬のうちにこの機微を見通して「花盛りなんて馬鹿なことがあるか」と喝破する。これは丸谷ならずとも恐れ入らざろを得ない。

しかしまたこういうところもある。「鳥の道の巻」の初裏[しようら]、大岡の「こはき毛をナブ☆らせている夏の痩」に丸谷が「国亡びしを知らぬあそび女」とつけた。これは、杜牧の「商女は知らず亡国の恨み」を言いかえたものだ。つまり丸谷は、「こはき毛」を進駐軍兵士の胸毛、それをなぶっている女を日本のパン助と見定めた。そしてそのパン助を、国亡びし歌なることを知らずして「後庭花」を唱う唐土の娼婦に托して一句を案じたのである。
杜牧の「泊秦淮」は著名な詩だからアンツグも見たことはあるに相違ないのだが、もう年だからきれいに忘れてしまって、「これも全く無意味な句ですな。情景からいえばその相手の女はこういう素性の女だということには違いないけれど」と少しもこの句の仕掛に気づかない。これには丸谷も挨拶のしように困って「これは前句の『夏』で、八月十五日が出てきたんだな(笑)」と苦笑してすませてしまっている。宗匠の老耄をいたわった親切とも言えようが、見ようによっては残酷な風景である。
また次のようなところもある。
「だらだら坂の巻」の名残表、大岡の「さっと忍者[しのび]が盗むまたたび」に宗匠「どの家も背戸を開けたる宵月夜」とつけた。この句はアンツグ大変な自慢で「その次の付けはぼくとしてはこの歌仙のなかで一番会心の付けでありまして、いま読み直してみても気に入っている。『背戸を開けたる』という表現を思いついたところがね、さっと盗むというふうに攻められたわけだからどうぞどこからでもお入りください、と受けてかわしたわけだ。それも盗みに入ってくる前に全部開けておいてやろうというわけ。まあそれだけの工夫だが、案外苦労した。結局盗まれる側の心の工夫とはどういうものか、という点に気付いたところが見どころか」と、すっかり悦に入っている。
しかしこれは、誰が見ても、『炭俵』「梅が香の巻」の野坡の句「どの家も東の方に窓をあけ」のもじりだ。「梅が香」は七部集のなかでも最も知られた一巻だし、第一アンツグ宗匠自身『芭蕉七部集評釈』でこの巻をとりあげ、野坡の句についても論じて、例によって露伴をこきおろしたりしているのだから、これは年のせいで忘れたのではあるまい。他の者が呈したら忽ち叱りとばすところだが、自分の作となると目が見えなくなるのである。
丸谷・大岡も勿論野坡の句は知っている。だから、大岡「先に意識的に開けてあるところが安東さんらしい(笑)」丸谷「木刀かなんか持って待ってるんじゃないか(笑)」大岡「しかもこれ玄関じゃなくてね。背戸というのが、また裏なんだよ。なぜか裏の感が大好きなお方で(笑)」と笑ってばかりいる。
こういうところを見ると、俳諧の一座というのは、和気藹藹[わきあいあい]たる敵意の衝突であることがよくわかる。それはそうであろう。単なるなごやかさのみであったならば、昔からあんなにも多くの人が俳諧に夢中になったはずがない。俳諧は、人間の、人とまじわり親しみたいという本能と、人とたたかいねじりふせたいという本能とが、ともに満足させられる場である。
宗匠と弟子のあいだとなると、表面上はあくまで敬意をあらわしてないといけないし、また、実際敬服せざるを得ない点も多々あるのだから、和気藹藹たる敵意はいっそう屈折してくる。蕉翁と門弟たちとのあいだにさえそれがあったことは、芥川龍之介がつとに感づいているとおりだ。もっともこのばあいは、創作者としても批評者としてもあまりにも偉大な師に対する、十分才覚もあれば力量もある弟子たちの何ともやり切れない思い、このような師とめぐりあえた幸福感とないまぜになった抑圧感というようなものであったろうけれども。
ともかくも、俳諧の座は修羅場である。だからこそ、挙句の前には美しい花を出し、挙句はおだやかに巻き収めぬばならぬ。かくて戦いの終ったあとに、戦いの場で発せられた喝采も怒罵も阿鼻叫喚もあとをとどめぬ数枚の懐紙がのこる。蕉翁はそれを指して「文台引きおろせばすなはち反故」と仰せられたのである。