「「四法印」の教え - みうらじゅん」マイ仏教 から

 

「「四法印」の教え - みうらじゅん」マイ仏教 から

これまでお話ししてきたように、私は仏像にグッときたのを「入り口」として、次第に仏教にも興味を持つようになりました。いわゆる「形から入った」わけで、その点では今のフィギュア好きと変わらなかったかもしれません。ただ、ウルトラマンや怪獣などのフィギュアと違っていたのは、当然のことながら、仏像に「お釈迦さんの教え」=「教義」があったことです。
あらゆる仏像のあらゆるパーツに意味があり、そこには教義がつまっています。
「印契[いんげい]」と呼ばれる仏像の手や指の組み方にも、「お釈迦さんが悟りを開いたときのもの」(「禅正[ぜんじよう]印)や「衆生の不安や恐れを取り除くもの」(「施無畏[せむい]印)など、一つ一つに意味があります。
しかしこれはあくまで仏像に込められた「教義」です。では、二千五百年前にお釈迦さんが説いた、仏教の教えとはどのようなものなのでしょうか。
ここでは基本中の基本を紹介したいと思います。
仏教の教えの基本を特徴づけるのが、「四法印」と呼ばれるものです。『岩波仏教辞典』によると「四法印」は以下のように説明されています。

諸行無常
われわれの認識するあらゆるものは、直接的・間接的なさまざまな原因(因縁)が働くことによって、現在、たまたまそのように作り出され、現象しているにすぎない(中略)。あらゆる現象の変化してやむことがないということ。人間存在を含め、作られたものはすべて、瞬時たりとも同一のままではありえないこと。
諸法無我
いかなる存在も不変の本質を有しないこと。すべてのものは、直接的・間接的にさまざまな原因が働くことによってはじめて生じるのであり、それらの原因が失われれば直ちに滅し、そこにはなんらの実体的なものがないということ。したがって、われわれの自己として認識されるものもまた、実体のないものでしかなく、自己に対する執着はむなしく、誤れるものとされる。
一切皆苦[いつさいかいく]
仏教は生まれたままの自然状態、すなわち凡夫の状態は迷いの中にある苦としての存在と捉え、そから脱却して初めて涅槃という楽に至ると考えて、この迷いの世界のありさまを〈行苦〉と表現する。この行苦は涅槃に至った者を除いて例外なく存在し、皆苦の意味を持つ。
涅槃寂静[ねはんじやくじよう]
煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)であるということ。

どれも含蓄があり実生活にも応用可能だと思います(このうち「一切皆苦」を除いて、「三法印」とする考え方もあるようです)。
この四法印のうち「諸行無常」と「諸法無我」について、自分なりに考えたことをお話ししたいと思います。

 

諸法無我=自分なくし
四法印のうち、諸行無常に続いて、次は諸法無我です。
諸法無我というのは、いかなるものにも実体はない、というお釈迦さんの尊い教えのひとつです。あらゆるものは一時的な状態に過ぎず、永久不変のものはこの世に存在しない。
それは「無我」とあるように、当然「そう考える自分自身にも実体はない」ということです。ヨーロッパでは「我思う。故に我あり」という有名なフレーズがありますが、仏教では「そう思う我も無い」と考えるのです。
数年前に、サッカーの中田秀寿が引退して、「自分探しの旅に出ます」と宣言したことがありました。その旅の途中、リハビリ中のお相撲さんとサッカーをして、話題になったことがあります。先ほど、元祖・自分探しは、ビートルズジョージ・ハリスンではないかという話もしました。
それ以前からも、「自分探し」という言葉は世の中に流布し、学生やOLから、主婦やサラリーマンまで、日本中が「自分探し」に夢中になり、「本当の自分」というものを必死になって探していました。中には、坐禅や写経をするなど、仏教に触れることで「自分探し」をしようなんていう人も少なからずいたように見受けられました。
しかしこれまで自分探しを始めた人で、見事本当の自分を見つけたという人がいるのでしょうか?
仏教では、「無我」つまり「本当の自分」なんてものはない、ということを二千五百年前から説かれているのです。
私は、「自分探し」よりもむしろ、「自分なくし」の方が大事なのではないかと思っています。お釈迦さんの教えにならい、「自分探しの旅」ではなくて、「自分なくしの旅」を目指すべきなのです。