「猫 - 井伏鱒二」講談社文芸文庫現代日本のエッセイ井伏鱒二・三浦哲郎編

 

「猫 - 井伏鱒二講談社文芸文庫現代日本のエッセイ井伏鱒二三浦哲郎

 

私のところでは猫を一ぴき飼っている。十二年前に迷いこんで来てそのまま居ついている。そのころ鼠が出て困ったので、うちの者が知り合いのところで子猫を一ぴき貰って来ると、偶然にも同じその日に野良猫が迷いこんで来た。
その迷い猫の方は三毛で身ごもっていた。貰って来た方は生後一箇月くらいの雄猫で、御目見得料として鰹節を三本つけられていた。私はどちらを飼うか迷ったが、要は鼠を防ぐためだから三毛を飼うことにして、子猫と鰹節と一緒に返しに行った。その頃、鰹節は貴重であった。
三毛は私のうちに居ついて二週間目が三週間目に六ぴき子を産んだ。子猫の目があいて暫くすると、鉄道関係の人が欲しいと云うので渡りに船と六ぴきともくれてやった。その人は、静岡へ持って行って、一ぴき二百円のキャッシュで売ったと後日云っていた。鉄道の方に関係しながら闇屋に似たこともしていたらしい。静岡は戦争中に焼野原になって猫までいなくなったので、当時バラック街の人たちが鼠の害で困っていたそうだ。
子猫の始末ついて暫くすると、黒いチャボが迷いこんで来た。まだ戦後のどさくさがおさまらない当時のことだから、鶏まで落着きがなかったのだ。チャボは濡縁の下に入って、巣についたようにうずくまっていた。うちでは交番へ届けに行ったり、近所のうちへも問いあわせたりした。
「ひょっとしたら、西荻窪の斎藤さんのチャボかもしれないよ」
私は家内に、斎藤さんのうちへ問合せの連絡をさせ、チャボをカナリヤの空籠に入れた。
斎藤さんのうちでは戦争中から黒いチャボのつがいを飼っていた。雌の方は奥さんによくなついて、奥さんが買物に出かけようとすると、コッココッコと鳴いて後を慕うので、奥さんはそれを買物籠に入れて歩いていた。西荻窪から電車で荻窪へ買出しに来るときも、ついでに私のうちへ寄るときも買物籠に黒いチャボを入れていた。よく馴れたチャボだから、人が林檎の黒い種を手の平にのせてやると、籠から首を伸ばして啄[ついば]んだ。
奥さんの話では、空襲のとき奥さんたちが防空壕に逃げこむと、チャボも後をつけて逃げこんで来る。飛行機が来ると、敵機と味方機の区別なく、木の下にかくれて雄を呼びながら頭だけ隠している。今が卵の産みごろの年齢だと云っていた。
戦後になってからも、たまに奥さんは買物籠にチャボを入れて私のうちへ来ることがあった。別に用があるわけではない。私の家内と女学校時代の同級で、斎藤さんとの間に子宝がないから暇つぶしにくるのである。あるいは奥さんが荻窪のどこかの店に寄ったとき、買物籠から逃げ出したチャボかもしれぬ。そんな風にも考えた。
私はチャボを入れた籠を茶の間の濡縁の上に置いた。ここは私のうちで一ばん陽当たりのいい場所である。餌にはハコベをやって林檎の滓[かす]もやった。人間の食糧にも事を欠くころのことだから、人間の食べられないものをやることにした。ところがチャボは御飯の食べ残しよりも林檎の黒い種を好いた。それよりも林檎の酸っぱい芯のところを好いた。
家内は斎藤さんのうちから帰って来て、がっかりしたように云った。
「斎藤さんのうちのチャボは、大きな盥のなかで卵を温めていました。雄の方が番兵になって、盥のわきに立っているのです。しょんぼりとしたような番兵でした。
「そりゃ戦争中から飼っているんだから、産室を守る番兵としては老兵だろう。もう五歳から六歳になる筈だ。人間にすれば僕くらいの年齢かね」
動物事典を出して見たが、チャボの寿命については触れてなかった。私は小鳥屋へチャボの餌を買いに行った。小鳥屋といっても、そのころは笊[ざる]や籠など店に並べて内々で粉米なんか売っていた。私は粉米を買って、小鳥屋の主人にチャボの寿命について聞いてみた。普通、チャボは十年ぐらいで老いぼれるが、うまく寿命を持たせると三十年ぐらい生きのびるそうだ。
「十五歳にもなれば、まるで置物の羽抜鳥だ。鳥のうちで、寿命の長いのは隼だ。これは百年から百年六十年だ。もっと長いのは鸚鵡だね。どこかのお屋敷には、江戸時代からの鸚鵡が戦争前までいたそうだ。俺は話に聞いたことがある」
本当かどうだか、駅前の小鳥屋の親爺さんはそう云った。
この親爺はチャボの年齢の見分けかたを私に教えてくれた。鳥の脚は鱗で包まれたような外見になっている。それがつるりとしていれば若い。ささくれ立っていればいるほど年をとっているそうだ。
私のうちのチャボの脚は、ほんの少しささくれ立っていた。卵を産み盛りの年のような気がした。一箇月たっても二箇月たっても産まなかった。うちに三毛猫がいるためでもなさそうであった。うちの猫は初めのうちチャボを狙ったが、そのつど家内が叱っているうちに、よそのうちの猫がチャボを狙いに来ると追い払うようになっていた。昼間は籠のわきでうつらうつらしながら番をして、よその猫が来ると、勢いよく起きて飛びかかって行った。夜は籠を物置に入れるので、よその猫に脅かされる心配はなかった。
やっと三箇月ぐらいたってから卵を一つ産んだ。小鳥屋の親爺さんも云っていたが、チャボや鶏は産みはじめると続いて卵を産むそうだ。明日もまた産むかもしれないと心待ちにしていると、その翌日、隣の町内な見知らぬ中年婦人が、バスケットを持ってチャボのことで掛合にやって来た。
「うちのチャボがお宅に来ているそうですから、頂きに参りました。うちで子供のように可愛がっていました。どうして逃げて来たか知りませんか、八百屋さんで聞いたので頂きに参りました」
これがその中年婦人の口上である。私はこの口上が気に入らなかったが、こんなぶしつけな口がきけるのは、実際の飼主であったせいだと思って返してやった。
婦人はチャボをバスケットに入れると、
「どうも失礼いたしました」と云うだけで帰って行った。
私はこの日を境に、三毛猫だけは本気で飼ってやろうという気持になっていた。

この三毛猫については、数年前にも私は文章に書いたことがある。私のうちに迷いこんで来て間もないころ、庭さきでこの猫が見事に蝮を退治してくれたので、私は危く蝮に噛まれるところを助かった。蝮は蛇屋から逃げて来たものだろう。そのころ私のうちの庭さきには、植木屋の刈込んだ木の枝が、柘榴の木の下に一箇月あまりも束ねたままになっていた。ある日、それを燃そうと思って柘榴の木の下に行くと、束ねてある木の枯葉を猫がばさりばさりと手で叩いていた。妙なふざけかたをするものだと思った。
「こら三毛、あっちへ行け」
私はライターの火を枯葉につけようとした。すると、私が火をつけようとした場所に、一ぴきの蛇が鎌首を猫に叩かれながら這いつくばっていた。
私は田舎生まれだから日本産の青大将と蝮の区別は知っている。色も斑紋も大島絣[おおしまかすり]そっくりのやつが蝮である。こいつの前で軽はずみな挙動をすると飛びついて来る。それが猫に叩かれている。私は伸ばした手をそっと引込めて、半ばしゃがんだままの姿勢で、そろそろと後にさがった。
猫は左手と右手で交互に蝮の頭を叩いていた。猫に左利き右利きの差別はないようだ。おどけたような手つきで左右交互に使って叩いて行き、蝮が鎌首を沈めると、きょろきょろとあたりを見まわしている。この隙に、蝮が猫の手をねらって、さっと鎌首を伸ばす。猫は素早く手を避ける。それも必要以上には引込めない。蝮の口と殆どすれすれの程度に引込める。次に、また左右交互に使って叩いて行く。蝮が頭を地に着けると手を控え、蝮が襲って来ると手を引込める。蝮も猫も同じ仕方で襲撃と逆襲を繰り返した。
おそらく猫は蝮の体勢で、どこまで鎌首が伸びるか知っているのだろう。私は猫が勝つと思ったが、大事をとって、柘榴の木に立てかけていた防空演習用の鳶口[とびぐち]で蝮の頭を抑えつけた。その瞬間、猫は蝮の首に飛びついて赤肌に剥いだ。目にも止まらぬ早技であった。
蝮は頭の部分だけに皮を残し、あとはすっかり赤肌で、裏返しに剥けた皮は鞘型の筒になった。その鞘型の端から、わずかに尻尾の先を、細い舌の先と同じようにちらつかせた。猫はそれを嬉しがって、仰向けに引っくり返って後脚でからかった。蝮はもう恥も外聞もない。赤肌剥けの胴体を立てなおして猫の後脚を襲ったが、飛び起きた猫にまたもや叩かれて頭を土に附けた。猫は嬉しそうに引っくり返って、鞘型の筒先にちらつく尻尾を後脚でからかった。それを互に同じ遣りかたで何度も繰返した。
最後に猫は蝮の首に噛みついた。この一撃でもう動かなくさせた。私は体じゅう青くさくなったような気がしたので、風呂場に行って頭から水をかぶった。出て来て見ると、猫が蝮をくわえてどこかへ棄てに行った後であった。
それからというもの私は、うちの猫に対して恩義に似た気持を覚えるようになった。抱いたり膝の上に乗せたりしたことは一度もないが、相手は動物の直感力によって私が一もく置いているのを知っていた。廊下で日向ぼっこをしているときでも、私がその上を跨ぐようにして通るのに平然としているのであった。

十二年前に孕みの身で迷いこんだ猫だから、今年は数え年で十三歳以上になるわけだ。猫としては大して年寄りとも云えないが、五年前の春お産のとき、一ぴき産んで二ひき目が出かかって出なかった。医者が来てそれを引張っても、苦しがるだけで出ないから、帝王切開の手術を受けさせた。それからは体力も衰えた風で、盛りがついても孕まなくなった。魚屋が来ると裏口からの声で台所へ駈けて行くが、魚の骨をもてあますほど歯の力が弱っている。手術を受けた後で、すぐ盛りがついたのが悪かったらしい。自制力がないのだから仕方がない。
医者は猫を病院に連れて行くとき、うちの家内にこう云ったそうだ。
「あと二ひき、腹に残っているようです。もう年寄の猫ですから、切開しても卵巣は残しておきます。命は大丈夫ですが、今後は雄猫と交渉があっても、すぐ流産するかたちになって孕まないでしょう」
私はその場にいなかったので知らないが、後で家内に聞いた話では、医者は猫を草取籠に入れて風呂敷に包んで病院に持って帰り、二十四時間たつと同じ籠に入れて持って来てくれた。籠から出すと、まだ麻酔がきいて三毛はぐったりなっていた。胴体は繃帯されていた。お医者は「炬燵に入れて温かくしてやって下さい」と云って帰って行ったそうだ。
一週間目に医者が繃帯を取ってくれた。入院料、帝王切開の手術料、その後一週間ぶんの往診料、注射代などで合計一万三千円であった。家内は自分の病気は富山の薬で間に合わすといったたちだから「うちでは文芸家協会の健康保険に入っているんですけれど」と云った。すると医者が、「それはよく存じておりますが、猫は扶養家族のうちに入らないんでして」と甚だ云いにくそうに云った。
しかし家内は、猫がもうお産をしないからほっとしたと云った。うちの三毛は多産系で、ひところは一年に三回もお産したので子猫の始末に閉口した。それに私のうちの辻道のところにあって生垣が空いているから、よその人が闇にまぎれて猫の子を垣根のなかに捨てて行く。まだ目のあいていないのを捨てて行く人もある。どうして子猫を引取る商売の店がないのだろうと、そのつど思わせられることであった。
手術を受けてから後は、うちの猫は医者の云った通り盛りはついても子を孕まなくなった。しかも病気がちで、食べたものを吐いたり鼻汁を出したりして、医者の往診を受けることが多くなった。今年の春は鼻汁を流す病気で憔悴した挙句、三日間もどこかに隠れて姿を見せなかった。もう駄目なんだろうかと噂をしていたが、小さな地震があったので私が庭に出ると、どこからともなく三毛が出て来てしょんぼり敷石の上に坐った。

先日、斎藤さんの奥さんが久しぶりに見えた。
「うちの猫もだんだん弱りました。年が年ですから」と家内が云うと、
「うちのチャボも、だんだん弱りました」と奥さんが云った。「もう十一歳のお婆さんですから、せんだっては、卵黄のない卵を産みました。白身ばっかりの卵です」
そのチャボは以前のチャボではなくて、昭和二十三年生まれの二代目のチャボである。先代のチャボは、七年前に斎藤さん夫婦の留守の間に亡くなった。斎藤さんが札幌へビル建築の仕事に出かけたので、奥さんも出かけて行って建築がすむまで三年間、札幌で一緒に暮らしていた。その留守に先代のチャボは亡くなったが、斎藤さんのお母さんは倅夫婦が力を落すと思って知らせなかった。二代目のチャボもその三年間、一箇も卵を産まなかった。元気も悪くなって鶏冠の色もあせてしまった。ところが斎藤さん夫婦が西荻窪に帰って来ると、その翌日から卵を産みだした。留守中、お母さんがチャボを庭へ出してやらなかったせいもあったろう。
この二代目のチャボは、先代のチャボが大盥のなかで抱いていた卵から生れたチャボである。早いもので、それがもう十一歳になっている。先代と同じく、飛行機の爆音が聞こえると木の下に頭を突っ込んで、コッココッコという鳴き声で同僚のプリマスロックにも待避させようとする。ところがプリマスロックは気の長い鶏だから、のっそり立っているだけで隠れない。チャボだけ一心不乱に頭を隠している。奥さんが買物に出かけようとすると、後を慕ってコッココッコと鳴いて呼び止めようとする。することなすことすべてが先代と同じやりかたである。奥さんの可愛がりかたも同じだが、今では買物籠に入れて持ち歩くのは止しているそうだ。
私は奥さんが帰ってから家内に云った。
「あれでは却って、光陰矢のごとしを感じるだろうじゃないか。先代のチャボと二代目が、羽根の色も形も習性も同じだから、じっと見ていると却って自分が年とったと思うだろうじゃないか。錯覚でなくって、実感というやつだ。確かに実感ではその思いだろう」
すると家内が云った。
「それよりも、うちの三毛を見ている方が、まだ光陰矢の如しです。毎日の私の実感です。うちの猫を見ていると、どんどん他が変って行くのがわかります。あのときにはこの猫がいた。あのときはあれは、今ではあんなに変っている。猫だけが昔と同じ状態で、他ばかり変って行くのがわかります。子供の身のたけだってずいぶん伸びました。私には貴方の仰有ることがわかりません」
わからないならそれでもいい。例えば私は二十年前にどこそこの川のどこかの淵で、六寸の鮠を釣ったとする。今年また同じ淵で同じ寸法の鮠を釣ったとする。過ぎゆく早さを感ずること頻りなものがある。話はそれだけに終った。
後から夕刊を取りに茶の間へ行くと、三毛が火鉢のふちにあがって置物のようにじっとうずくまっていた。毛色が三色というだけで見るかげもなく瘠せている。野良猫のように貧相になっている。これを見て、猫だけが同じ状態だというのは解せない。
「共に老けましたと云うべきだ」
猫は私が火鉢に凭[もた]れても身動きしなかった。夕刊を頭の上にかぶせても動こうとしなかった。
私はこの猫を抱いたり膝に乗せたりしたことは一度もない。しかし未だにこの老いぼれ猫に一もく置いている。