「襟の穴 - 神吉拓郎」日本の名随筆別巻83男心から

 

「襟の穴 - 神吉拓郎」日本の名随筆別巻83男心から

親しい先輩に、ぶしつけな質問をしたことがある。
「もし、勲章をくれるという話が持ちあがったら、どうしますか」
質問してから、ああ、口が滑ったなと思った。夢のような話ではなくて、その先輩の社会的な業績からいえば、ごく現実的な話なのである。勲章の二つや三つ、当然である。
先輩は、苦笑して、
「ことわってみたいとこだね」
といった。
「ことわって、恰好のいいとこを見せたい気持はあるよ」
さらに、続けて、
「勲章っていうのは、いまいましいところがあるからね」
といった。
筋金入り、とか、硬骨というところを蔵している人物だから、不思議はない。
「しかし、だなあ」
先輩はつけ足した。
「一度ことわったら、愛想をつかされて、もう、二度と貰えないとなると、もっと口惜しいだろうね」
なるほど。
「三度までは、すすめてくれる、そういう暗黙のルールがあったらいいだろうにね」
先輩は、にやにや笑った。私もつられて、にやにやした。
「そうしたら、三度めに、ウンといいますか」
すると、先輩は、すまして、こういった。
「いや、一度ことわって、二度めに受ける。それが礼儀としてもいいところだろう」
それもそうだろうな、と私は感心した。三度目にもなったら、勲章を出す係の人だって、いまいましくて、やりたくなくなるに違いない。
勲章とか、位階勲等というものには、摩訶不思議な魅力があるらしくて、まだ私のような若輩にはその魅力は解らないらしい。
功なり、名遂げて、五慾枯れ切ったのちに、まだ残るのがこれなんだそうで、広告のコピーライターがいみじくも提案している通り、(人に差をつけたい)というのが、人間の最後の慾なのかもしれない。
勲三等と勲四等をくらべれば、勲三等の方がエラいということはハッキリ決っている。だから、二か三か、四か五か、その数字的評価をめぐって、嫉視、反感、暗闘、絶望、と、ありとあらゆる人間感情の渦巻きが見られるのだそうだ。
なにしろ、またまた世界長寿国のナンバーワンにかえり咲いたわが国である。五慾が枯れてしまっても、まだ行きながらえるとなると、そういう楽しみでもなくちゃ、とてもやっていけない。ゴルフが出来なくなっても、ゲート・ボールが出来なくなっても、まだそういうナマぐさい楽しみが残っているというのは嬉しいことだ。
なんとか、われわれフツーのオジさんも将来参加させて貰いたいもんだけれど、駄目かなあ。
フランスの、世界的に有名な勲章で、レジォンドヌールというのがある。種類がいろいろあるらしいけれど、略式の場合は、襟の穴に略綬の小さなリボンをつける。これは大変いい感じのもので、貰ったら、かなり嬉しいんじゃないかと思う。
だから、フランス人は、これが大好きで、嬉々としてこれをつけている。襟の穴を通してつけるようになっていて、アクセサリーとしても、なかなかいい。
ところが、ブリアンという政治家は(......そんな言いかたはしないでもいいかな。とにかく、世界史の上でブリアンといえば、まずこの人だから)どうしたことか、まだ若いときに、貰える筈だった勲章を貰いはぐってしまった。邪魔が入ったか、意外な伏兵がいて、リストから洩れてしまったらしい。それからブリアンは、意地のかたまりになって、死ぬまで、どんな種類の勲章も拒否し続けたそうである。
とにかくフランスを代表する人物だから、この、ブリアンが勲章をうけつけないという話は、有名だったらしい。
迂闊なことに、ときの日本政府が、彼に勲章を贈ろうと思い立った。
だいぶ世話になっていますし、かなりいいのをやりましょう。勲二等じゃまずいでしょう。ここは一等を奮発して......みたいな話があったかどうだか、とにかく考えられる限りいいのを上げようということになって、日本の大使が、打診に行った。
すると、ブリアンは、またか、と思っただろうが、そんなことは口には出さない。自分の服の襟の穴のところを、掌でかくして、日本の大使にこういったそうだ。
「ここだけは、いつまでも処女のままにしておきたいのだよ」

襟の穴というのは、妙なものだ。
穴があいているから、ちょっとなにか挿してみたくなる。
日本人を二大別すると、まず、男と女という分けかたがあって、それから上戸と下戸というのもある。
もうひとつ、バッジ好きと、バッジはどうもという派に分けられるような気がする。バッジ好きは、日本人の特徴のひとつらしい。議員バッジとか、代紋とか、好きな人が多いのである。
大会社の社員なども、身もとの識別上仕方がないようなことをいうけれども、嫌いではないらしい。自分が大会社の社員であることを、なんとなく誇示したいところが、ほの見えないでもない。
カラスは光るものが好きで、光っているものを見ると、なんでもくわえて行ってしまう。
人間も同じ動物だから、光るものが好きでおかしくない。女性は特に光るものが好きだといって笑われるが、男性だって、好きの程度に変りはないのである。
勲章とかバッジとかは、人間の弱点に深く根ざしたもので、ひょっとすると、悪魔の発明品ではないかという気がする。
あのブリアンだって、苦い思いをしているくらいだし、賢いといわれる人、すぐれた人物が、しばしばこれにふり廻されるんだから恐しい。
やはり、襟の穴は、処女のままか、まれに花でも挿すぐらいがいい。