「一日玄米四合の謎 - 松本健一」2001年度版ベストエッセイ集 から

「一日玄米四合の謎 - 松本健一」2001年度版ベストエッセイ集 から

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という人口に膾炙[かいしや]した詩がある。むずかしい語句や暗喩はなく、かなりストレートに、素朴な人間像をうたいあげているので、教科書などにもよく採りあげられてきた。
しかし、この詩に関して、わたしにはながいあいだ一つの疑問というか、わからないことがあった。それは、「一日ニ玄米四合」という食事のことである。
詩の主人公の「ワタシ」は、丈夫な体をもって「慾ハ」無い、ことを理想としている。家は、野原の松の林のかげの「小サナ萱(かや)ブギノ小屋」でいい、という。副食の「味噌ト少シノ野菜」も、わかる。

しかし、主食ともいうべき「一日ニ玄米四合」というのが、じつはよくわからない。ありていにいえば、これは一日に食べる米の量としては、ちょっと多いのではあるまいか。
そうおもって、この四十年ぐらい、誰か合理的な説明をしてくれないか、と期待してきたが、誰もしてくれない。数年まえに生誕百年を記念した宮沢賢治ブームがあったけれど、賢治の「自然との交感」という理念については語られても「一日ニ玄米四合」という現実の食事の量については、誰も語ってくれなかった。
荒川洋治さんの詩ではないか、「俗のかたまり」の僕は、賢治教の詩人たちにむかって、
「美代子、あれは詩人だ。/石を投げなさい。」
と叫びたくなったほどである。
第一、なぜ玄米なのか。そして、なぜ四合なのか。一日に四合といえば、お茶碗にして十杯分ぐらいはあるはずで、朝昼晩に分けても、かなりの量がある。若ものふうにドンブリ飯にすると、毎食ドンブリ一杯半ずつぐらいはあるのではないか。これで、「慾ハナク」とは、ちょっと矛盾するのではないか、とさえおもったのである。
たしかに、ガンディは菜食主義をつらぬくために、一度の食事に最低パン一斤をたべなければならなかったというから、肉や魚なしの食事では玄米四合ぐらいは必要なのかもしれない。ただ、ガンディのばあい、食事は一日二度だったような気もする。とすると、やはり一日十杯分の玄米ごはんは多いようにもおもわれる。
しかし、こんな初歩的なことは誰にもきけないし、それが詩の本質にかかわることか、などと反論されたら、困る。そうおもって、わたしひとりの謎として、ながいあいだ仕舞いこんできた。

ところが、この五年ほど『評伝 佐久間象山』(中央公論新社)を書きつづけ、同時に七年間『隠岐セミナー』を主宰しているうちに、わたしはあることに気がついた。
たとえば、わたしは『評伝 佐久間象山』の上巻一〇二ページに、象山の禄高(年俸)がはじめは五両五人扶持だった、書いている。一人[いちにん]扶持というのは、一人あて一日玄米五合の計算で、五人扶持でも一年で九石ていどにすぎない、とも。
徳川時代、藩の家老クラスは、少なくて三百石、多いと大名なみの一万石以上(たとえば水戸藩の中山備前守)の禄高をもらっていた。にもかかわらず、佐久間象山という「非常の才」は、一年に五両と九石ていどの給料をもらえるだけだったのである。
いずれにしても、一人扶持、つまり一人の人間が一日生活するための最低限の給与規定が、徳川時代、玄米五合だった。象山のばあい、本人と妻(妾)、父母、それに子供一人が、かつかつ生活してゆけるだけの禄高が五人扶持ということになる。
だが、この玄米五合というのは、これ全部を食料とするわけではなく、そこから塩や味噌などの代金を支払い、被服費や魚などの副食代も捻出しなければならない総収入なのである。とすれば、一人扶持の玄米五合は、主食用としては三合ていどにしかならない。
かつて隠岐島には流人が送りこまれたが、大塩平八郎の乱連座した政治犯の子供(十五歳)のばあいも、幕府からは一人扶持が与えられていた。それだけあれば、なんとか一人分の肉体の維持は出来る。ということだろう。むろん、書籍代など捻出できるわけではない。
そのように考えてみると、宮沢賢治の詩にあった「一日ニ玄米四合」というのは、この一人扶持、つまり人間一人がなんとか生きながらえてゆくのに必要な総収入の五合より、なお少ない、というイメージだったのではないか。それゆえに、「慾ハナク」なのだろう。
わたしはながいあいだの謎がやっと、いちおうの答えを見出したような気がした。それも、宮沢賢治研究とはまったく別のところで、いや佐久間象山の思想研究や隠岐島の歴史研究ともやや異なる雑学の領域で、わたしなりの答えを見出し、やや納得したのである。