(巻三十五)その裏は蜘蛛が囲を張るネオン街(柴田佐知子)

(巻三十五)その裏は蜘蛛が囲を張るネオン街(柴田佐知子)

10月29日土曜日

秋日和。朝家事は毛布干し、布団干し。細君は生協に行き、ついでにドラッグストアで化粧品を仕入れてきた。いくつになっても小綺麗にしていただくのはよろしいことだ。

今朝、細君が生協で5%引きクーポンを使った。クーポンは一日有効なのであとを引き受けて米と八女茶を買いに出かけた。生協前の花屋さんが綺麗に鉢を並べていたのでただ撮り。アイスモナカを噛りながら帰宅。そんな陽気だ。

昼飯食って、昼寝せず。

散歩は図書館で角川俳句を返し、笠間稲荷の前を通る。コンちゃんは居たが飼い主が餌をやっているところだったので知らん顔して通過。新道を渡り、都住3へ入る。藤棚のところのバイクのカバーの上にサンちゃんとフジちゃんが居たが素通りして1号棟に行き、クロちゃんを呼び出す。今日も癒してくれた。二袋進呈。そこから藤棚へ戻り様子をうかがうと今日は腹が空いていたようでサンちゃんが起きてきた。サンちゃん一袋半、フジちゃんには数粒。フジちゃんに今日も引っ掻かれた。もうあげない!

そこからファミマへ歩き、百十円ホット珈琲をベンチで喫し帰宅。

願い事-涅槃寂滅。しっかりと諦めて心静に去りたい。

Be happy. You don't know how much time you have left.

アポなしに死神が来る茶の間かな(前田弘)

土曜日の午後ということで公園などに子供たちずいぶんいた。あの子たちはこれから長い人生を歩んで行かなくならない。大変だなあ。

私はあと少しで終わる。よかった、よかった。私が死ねば処理に迷惑はかけるが、誰も困らないし、誰も悲しまない。世の中の人々との繋がりはとうに切れているので、その誰もという人も細君しかいない。そんな人生で大正解。

稲妻や世をすねて住む竹の奥(永井荷風)

「私の死論は「夫が先に死ぬ」」-斎藤茂太 日本の名随筆8 から

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昨日まで人のことかと思ひしがおれが死ぬのかこれはたまらん

なかなか面白く、味わいのある歌だ。これは蜀山人の辞世の歌らしい。「らしい」というのは、九大名誉教授の高橋義孝氏が著書の中でこの歌を引いているのだが、蜀山人の歌かどうかはっきりしないとことわっているのを、引用させていただいたものだからである。

どうやら人間という生物は、その場に立ちいたらないと、死というものを実感として考えられないところがある。ましてや、おのれの死となると、である。

〈これ、禅宗の話なんですけどね。偉い坊さんが、どこかの金持ちに招かれ、いちばん世の中でめでたい言葉を書いてくれと頼まれて、《父死、子死、孫死》って、色紙かなんかに書いたらしいんですね。金持ちがおこって、「死を三つも並べて、なにがめでたい言葉だ」といったら、その坊さんが「じゃ、こういうふうに書いたら、どう思います」って《孫死、子死、父死》と逆にしたわけです。そうしたら、その金持ちも「なるほど」と納得したそうです〉

という話を作家の井上ひさしさんがある対談で紹介している。

人間、だれでも年をとれば死について考えることが多くなる。いつか死ぬということは必定のことなのだから、これは仕方がないことだ。ただ、問題は死の順序である。

作曲家の高木東六さんと飲んだときにそういう話になった。高木さんは、

> 「ボク、家内に先に死なれたらどうしよう」

といって、深刻な顔をした。奥さんに死なれたら、もう一日も暮らしていけないという。同席していた仲間の多くがその意見に賛同した。

世にいう天才とか、一事にすぐれた人とか、仕事に全精力をそそいでいる人とかは、多くの場合、妻に依存する傾向が強い。

私もどうやらその部類に入るらしい。妻がいなくなれば、私の日々の生活の基盤は失われてしまうだろう。家庭内のこまごまとしたことは、私には何もわからない。これではいざというとき困ると思っても、つい、女房によりかかって生活している。

ある調査で、妻に先立たれた夫は、その寿命が少なくとも一五年は縮まるという結果が出ている。ヘビースモーカーが、五年から八年の間であるから、これは大変なことである。

妻に先立たれることを考えると恐怖におののくという人はずいぶんいる。自分が死ぬことを想像するよりははるかに恐怖心が強い。ことに高木東六さんのように音楽一筋とか、絵一筋、研究一筋、いわば世俗的なことにかかわらない生き方をしている人ほどしかりだ。

私にしても、妻より先に死にたいと思うのが実感だ。

七月にあいついで亡くなられた作家の船山馨さんのご夫妻は、まさしく比翼連理の枝に結ばれたご夫婦だが、私は自分の死後、女房には長生きしてほしいと思う。私から解放されて、一〇〇歳くらいまで楽しく生きてほしい。

ある大先輩の奥さまは、ご主人を亡くされたあと、見違えるように明るく元気になられた。旅行はする、芝居は観るで、気持がとても華やいできた。もっとも、その先輩は脳溢血で七年間も寝込み、看病も大変だったから、よけいそうなることは当然かもしれない。

これは、わが家の母も同じだ。父が死んでから急に生き生きしだした。それまで女としてやりたいことをしていたようでも、やはり父がいれば世話もしなければならない、そんなブレーキが父の死で一挙に外れれば、ますます元気になる。

でも、私は、これもまたひとつの生き方だと思う。とにかく父は俗世間のことはなにもわからない。反対に母は俗っぽすぎて、それでちょうどバランスがとれていた。

似た者夫婦というが、夫婦が本当に「似た者」だとしたら、その夫婦はあまりうまくいかないかもしれない。ふたりにプラスとマイナスがあり、そのプラスに対して身を引き、マイナスには出ていってそれを埋める。これがバランスのとれた夫婦というものだ。

死に方のバランスも、夫→妻というのがよいのではないか。

いや、ぜひ、そうあってほしいと念願する。