(巻三十五)手を抜けばかうなる見本蚯蚓の死

(巻三十五)手を抜けばかうなる見本蚯蚓の死

11月1日火曜日

謙虚なる十一月を愛すなり(遠藤梧逸)

ということで11月になった。時は過ぎていく。今日も朝となり、X1でありがたいことだ。

細君は生協で林檎を買ったのだが、帰宅してレシートチェックしたら、95円のを一個と135円のを一個をレジのおばさんが95円二個で打ってくれてしまったらしい。反対に損することあるんだから今回は勘弁してもらうことにしていた。

手に受けし林檎の中の闇思ふ(小谷一夫)

続いて私も生協にミカン他を買いに出かけた。その行き帰りに旅支度の老夫婦を一組ずつ見かけた。毎日が日曜日だと思うのだが何で高いときに出かけるのだろう。

今日よりは十一月の旅日記(星野立子)

昼飯喰って、シャツとチノパンにアイロンかけたりしたあと、少し散歩。

都住3へ直行し、クロちゃんを呼ぶが見当たらず。藤棚へ行きかけたところへ飛んで出てきた。二袋。

藤棚へ行くと2匹が寝ていて起きる気もない様子。そのままにして退去。

月始めなので蓮光寺掲示板を拝見しに参った。判らず「参った!」である。

OLYMPUSの古い、単4電池1本で動くICレコダーが気に入っていてまだ使っている。単4の安い奴(10本400円)1本でどのくらい聴けるのかチェックしてみたら30分番組を50本くらい聴けたようだ。24時間として3、4日くらいもつわけだ。

願い事-涅槃寂滅です。

昨日買った小さな手帳に警句を書きうつして句帳の懐に挟んだ。

"But death was sweet, death was gentle, death was kind; death healed the bruised spirit and the broken heart, and gave them rest and forgetfulness; death was man’s best friend; when man could endure life no longer, death came and set him free."

~Mark Twain (Letters From the Earth)

マーク・トゥエインという方はこんな事も書けちゃう人だったんだ‼

今朝の数値139-84,139-83と出た。少し落ち着いてきた。脈が60を下回るまでになった。心は難しい。

Nothing in the world can bother you as much as your own mind.

人体は心で変わる落葉かな(宮本智之)

「心身論と唯脳論(抜書) - 養老孟司ちくま学芸文庫 唯脳論 から

心は脳から生じるか

「脳という物質から、心が出てくる。そんなバカな話はない。心というものは、もっと霊妙不可思議なものだ」。

哲学で言う心身論とは、もっとも素朴な形では、こうした疑問から発生したものではないか。そこに、神学上の見解が加わる。神学では、心つまり精神とは、ヒトと神だけの持ち物でなくてはならないのである。もっともこれは、キリスト教神学の話だから、「一寸の虫にも五分の魂」というわが国では、ピンと来ない面もあって当然かもしれない。脳から心が生じて、なにが悪い。こちらでは、そう思う人の方が、多かったりする可能性もある。しかし、ちょっと考えると、脳という物質塊から、心というわけのわからぬものが出てくるというのは、変と言えば変である。したがって、この点を問題として指摘する習性が、文科系の人たちには、昔からあった。

唯脳論は、この素朴な問題点について、それなりの解答を与える。脳と心の関係の問題、すなわち心身論とは、じつは構造と機能の関係に帰着する、ということである。この点を具体的に考えてみよう。脳と心の関係に対する疑問は、たとえば次のように表明されることが多い。

「脳という物質から、なぜ心が発生するのか。脳をバラバラにしていったとする。そのどこに『心』が含まれていると言うのか。徹頭徹尾物質である脳を分解したところで、そこに心が含まれるわけがない」。

これはよくある型の疑問だが、じつは問題の立て方が誤まっていると思う。誤まった疑問からは、正しい答が出ないのは当然である。次のような例を考えてみればいい。

循環系の基本をなすのは、心臓である。心臓が動きを止めれば、循環は止まる。では訊くが、心臓血管系を分解していくとする。いったい、そのどこから、「循環」が出てくるというのか。心臓や血管の構成要素のどこにも、循環は入っていない。心臓は解剖できる。循環は解剖できない。循環の解剖とは、要するに比喩にしかならない。なぜなら、心臓は「物」だが、循環は「機能」だからである。

たとえばこの例が、心と脳の関係の、一見矛盾する状態を説明する。脳はたしかに「物質的存在」である。それは「物」として取りだすことができ、したがって、その重量を測ることができる。ところが、心はじつは脳の作用であり、つまり脳の機能を指している。したがって、心臓という「物」から、循環という「作用」ないし「機能」が出てこないように、「物」から「機能」である心が出てくるはずがない。言い換えれば、心臓血管系と循環系とは、同じ「なにか」を、違う見方で見たものであり、同様に、脳と心もまた、同じ「なにか」を、違う見方で見たものなのである。それだけのことである。

心を脳の機能としてではなく、なにか特別なものと考える。それを暗黙の前提にすると、「脳をバラしていっても、心が出てこない」と騒ぐ結果になる。それは、おそらく間違いである。「出てこない」のは正しいのだが、その意味で言えば、循環だって、心臓から出てくるわけではない。心が脳からは出てこないという主張は、じつは「機能は構造からは出てこない」という主張なのである。それは、まさしくそのとおりである。ただし、それは、心に限った話ではない。心は特別なものだという意識があるから、心の場合に限って、心という「機能」が、脳という「構造」から出てこないと騒ぐ。

> では、なぜヒトは、脳つまり「構造」と、心つまり「機能」とを、わざわざ分けて考えるのか。それは、われわれの脳が、そうした見方をとらざるを得ないように、構築されているからである。唯脳論は、そう答える。これは逃げ口上ではない。生物の器官について、構造と機能の別を立てるのは、ヒトの脳の特徴の一つである。それは、脳の構造を見ればすぐにわかる。その特徴がなぜ、どのようにして脳から生じるのかは、後の章で詳細に述べることにする。

腎臓が尿を作る。それは機能である。その過程は、物理的化学的に実証できる。しかし、神経細胞から心が生じるのを、物理や化学で実証できるか。そう頑張る人もあるかかもしれない。

これもおそらく、範疇の誤認である。心は「物」ではない。しかし、尿は「物」である。オシッコなら、検査のために採ることができる。しかし、心はそうはいかない。検査のために、心を一かけら採ってくれ。そんなことを誰が言うか。血液なら、検査のために採取できる。それなら、検査のために、「循環を一かけら」採ることができるか。

「物」か「物でない」かは、あんがい難しい。われわれが「物」であることを自明とするような「存在」が、かならずしも「物」でないことは、解剖学の用語を考えただけでもわかる。たとえば「口」や「肛門」は、その典型である。口はむしろ機能を示す用語であり、そのことは、「入口」「出口」といったことばに、よく示されている。「口は消化管の入口である」といった定義は、同語反復の典型である。また、解剖学実習で、「肛門だけ」切り取って重さを測れ、と言われた学生は、よく考えると、往生するであろう。よく考えない学生なら、周囲の皮膚を切り取ってくるであろうが、それはもちろん、ダメである。肛門に重量はない。なぜなら、肛門に「実体」はないからである。これはいわば、消化管の「出口」である。

これは決して、単なる語の定義の問題ではない。ある「ことば」と、その「ことば」に対応する「存在」を考えたとき、解剖学で利用する用語ですら、「対するもの」が、外界から、「実体」てして、かならずしも明確に取り出せるわけではない。それなら、その「対応するもの」は、いったいどこにあるのか。それは、われわれの脳内にある。外界から取り出せないとしたら、それしかないではないか。唯脳論では、あらゆる存在は、外界にあるか、あるいは脳内にあるとする。あるいは、多くの場合に、その両者にある。それは当たり前であろう。