「ビートルズとの共演を断った、突然のGSブーム&アッというまにタイガースに追い抜かれる - ムッシュかまやつ」日経BP ムッシュ! から

 

ビートルズとの共演を断った、突然のGSブーム&アッというまにタイガースに追い抜かれる - ムッシュかまやつ」日経BP ムッシュ! から

ビートルズとの共演を断った

一九六六年の六月、ビートルズが来日した。ぼくたちは武道館の客席にいた。ステージには前座として日本のミュージシャンが入れ替わり立ち替わり現れては歌い、演奏した。
スパイダースに出演依頼があったとき、光栄だと思う気持ちもあった。だが、ぼくらはしょせん彼らのコピーをしていたグループだったし、比べられて損する恐れもあり得る。いろいろな面でプラスになるのかマイナスになるのか、じっくり考えようと、メンバーが集まって会議まで開いた。
「どうする?」と田辺昭知が言う。
「ぼくらのほかにもいろいろ出るらしいんだけど…」
「誰が出るの?」
「ブルー・コメッツ、内田裕也、尾藤イサオ、桜井五郎、望月浩、ブルー・ジーンズ、ドリフターズ……」
ビートルズと共演すれば箔がつくっていう人もいるけどな」
「そんなに大勢の前座のなかの一本じゃあ、しょうがないよ」
「やりたいことはやりたいけど……」
「オレたちにもプライドってものがあるよな」
「そうだな、よし断ろう」

当日、日本人ミュージシャンのステージを観ながら、正しい判断をした、とぼくは感じていた。いまでも、正解だった、と思っている。
ビートルズをはじめとするイギリスのビート・グループが起こしたムーブメントに対するとらえ方が、日本の芸能界、音楽界は甘かったのだと思う。“カウンターカルチャー”などという言葉はまだ生まれていなかったが、日本の芸能界の対応を見ながら、「そうじゃないんだ」といつも心のなかでつぶやいていた。
音楽に対する姿勢とか考え方が、根本的に違っていたのだ。欧米の音楽の考え方が日本に浸透していったのは、七〇年代に入ってからだ。いま思うと、一部の人間を除いて、六〇年代の日本の音楽界は、その点、すごくプリミティブだった。おそらく、六九年のウッドストック・フェスティバルあたりからだろう、ただの風俗のように思われていたヒッピー・ムーブメントにも、それなりの意味があるというようなことに、みんなが気づき始めたのは、若い人たちはもっと早くから肌で感じていたのかもしれないが。
実は、ぼくも“ヒッピー”というのがよくわからなかった。
「サンフランシスコに行くなら、髪に花を挿すのを忘れるなよ」と歌うスコット・マッケンジーの「花のサンフランシスコ」という歌が、六七年に流行った。当時のサンフランシスコは“ヒッピーの聖地”だったから、そう歌われたのだが、ぼくにはいまひとつピンとこなかった。
サンフランシスコのサイケデリック・バンド、ジェファーソン・エアプレインの「あなただけを」という曲はスパイダースも取り上げていたが、なんで彼らが首から数珠を下げたり、インド服のようなものを着ているのかわからなかった。“ヒッピーイズム”というものを、少なくともぼくには全然わかっていなかったのだ。

 

突然のGSブーム

来日したビートルズを見て、日本のレコード会社やプロダクションは「ビートルズは市民権を得た」「これは商売になる」と考えたのだろう、遅蒔きながらビートルズ・スタイルをビジネスにし始めた。それからいろいろなバンドが続々とデビューし、それが“グループサウンズ(GS)”のブームにつながっていった。
“GS”という言葉は日本のマスコミの造語で、ぼくは嫌いなのだが、それまで、ボーカル&インストゥルメンタル・グループ、つまり“GS”といえるのはスパイダースとブルー・コメッツくらいで、“ブル・スパ時代”とあとから呼ばれることになる。当時、ぼくたちスパイダースのいちばんの強敵は、あおい輝彦のいたコーラス・グループ、ジャニーズだった。スパイダースの人気が出てきたときというのは、たしかジャニーズがボーカルとダンスのレッスンのために渡米し、日本に不在の時期だった。鬼のいぬ間に、という感じでぼくらがのし上がっていったのだ。
ところが、“ブル・スパ”しかなかったところに、ビートルズ来日後、あっというまにその数、三百ともいわれるGSが誕生し、戦国時代のようなありさまとなった。
ただ、その時点ですでに、欧米のロックを取り巻く環境は大きく変わりつつあった。ビートルズはそれまでの自分たちの活動に嫌気がさして、レコーディング・アーティストを目指していたし、イギリスでもアメリカでも、反体制的な新しいムーブメントが助走しはじめていたのだ。
それに比べると、日本の音楽界はいちいち遅れをとっていた。表面に出てくるのはもう少しあとになるが、時代に波長が合っていたのは関西フォークのような、違う観点から自発的に音楽を作りだしている人たちだった。
ビートルズ来日の翌年、六七年に、GSの大ブームが巻き起こる。ジュリー(沢田研二さん)のいたタイガースやショーケン(萩原健一さん)のテンプターズもデビューして、いくつものバンドが集められ「日劇エスタンカーニバル」が再び活況を呈した。演奏される音楽はもうウエスタンとは縁もゆかりもなかったが、なぜか「ウエスタンカーニバル」の呼称はそのままだった。
三、四ヵ月に一度の割で一週間、人気GSが一堂に会して、それぞれのバンドの親衛隊が熱心な応援を繰り広げるのだから、これはバトルのようなものである。スパイダースは毎年のようにイギリスやアメリカに行って、新しい音楽を仕入れ、マスターしてきた。帰国してすぐウエスタンカーニバルでそういう曲を演奏するとけっこうウケた。
たとえば、フォー・トップスの「リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア」。オーティス・レディング版「デイ・トリッパー」。
まだ日本ではほとんど知られていない、カッコいい曲を披露するときは、勝ち誇ったような気分だった。
ビートルズの「ペイパーバック・ライター」も、すごく早くカバーしていて、武道館で、アメリカのサーフィン・グループ、アストロノウツと共演したときにこの曲を演奏したら、アストロノウツのメンバーが、
「この曲、お前らのオリジナルか。すごいな」と目を丸くした。
アメリカのバンドがまだ知らなかった、そのくらい仕入れるのが早かった。
あの曲はイントロなしで、いきなりコーラスで入ってグイグイ押していく。お客は意表をつかれて「オーッ」と驚く。ステージ映えがするのだ。アメリカのバンドまで驚いたりすると、うれしかった。音楽をやっていて楽しいと、心から思えた時期だ。
「ハード・デイズ・ナイト」も、サス・フォーのコードをジャーンと鳴らしたあと、いきなり歌に入る。ビートルズには、従来の常識をくつがえすような曲が多かった。それがポップスのひとつのチャーミングなところだ。

 

アッというまにタイガースに追い抜かれる

六七年には、ブルー・コメッツが「ブルー・シャトー」でレコード大賞を受賞し、紅白歌合戦にも出場した。もっとも、市民権を得たのは髪をキチンとカットしてスーツを着ていたブルコメくらいで、スパイダースはじめ長髪のグループは賞からもNHKからも閉め出されていた。
そしてこの年、若いタイガースが女の子たちの熱狂的な支持を集め、人気の面でスパイダースをアッいうまに追い抜いていった。
京都という街は、スパイダースにとっては準フランチャイズのようなもので、毎月のように行っていたのだが、あるとき、コンサートが終わったあとのファンクラブの会合で、いちばん前の席に男の子が五人すわっていた。女の子ばかりなので、すごく目立った。
「ぼくたちもバンドやっているんです」
「スパイダースが好きで、今度ファンクラブに入りました」と彼らがいう。
「へえ。なんていうバンド?」
ファニーズです」
それがのちのタイガースだった。
いろいろ話したりしているうちに、仲よくなったし、ルックスもいいから、スパイダースの事務所、スパイダクションに入れてデビューさせようということになった。ところが、内田裕也さんが関西の出身だから、たぶんその関係で彼がファニーズを口説いたのだろう、彼が所属する渡辺プロダクションにとられてしまった。
しかもタイガースと名前を変えてデビューしたとたん、ものすごい勢いでスターダムを駆け昇っていった。スパイダクションに入っていたら、もしかしたら売れなかったかもしれないが、悔しいから、彼らにぶつけるために、スパイダクションが売り出したのがテンプターズだったはずだ。
たしか、大宮のディスコみたいなところで演奏していたのを誰かが見つけてきたのだと思う。ちょっと面白いバンドがいるから、みたいな感じで。
しかし、ガラが悪くてまいった。
スパイダースが出演しているジャズ喫茶に遊びにくると、客席から、
「『サティスファクション』やれ!」などと怒鳴ったりするのだ。彼ら、ストーンズが好きだったから。懐かしいね
日劇エスタンカーニバルで、ショーケンストーンズのナンバーを歌いながら十センチくらいの太さの角材を振り回したこともあった。ちょうど学生運動が盛んな時期だったから、ゲバ棒のつもりだったのだろう。スゴクかっこよかった。
オックスというバンドも“失神バンド”などと呼ばれて人気がでてきたし、GSブームの主役は若いグループに移りつつあった。