「「執著」があると苦は消えない - 佐々木閑」NHK出版新書ゴーダマは、いかにしてブッダとなったのか から

 

「「執著」があると苦は消えない - 佐々木閑NHK出版新書ゴーダマは、いかにしてブッダとなったのか から

「執著」があると苦は消えない
続きまして「執著」のいさめです。普通は「執着」と書きますが、仏教では「執著」と書きます。意味は同じです。お釈迦様は繰り返し「執著を捨てよ」とお説きになりました。なぜかというと、執著があるかぎり私たちは現世的な様々な縛りから自由になることはできず、生きる苦しみから逃れることもできないからです。
執着といってもいろいろなものがあります。代表的なものは「所有欲」でしょう。例をあげたほうが納得できると思います。ご覧ください。
「愚かな人は、『私には息子がいる』『私には財産がある』などといってそれで思い悩むが、自分自身がそもそも自分のものではない。ましてやどうして息子が自分のものであろうか。財産が自分のものであったりしようか」(ダンマパダ62)
人は物を所有したがる生きもので、自分のものだと思うとそれに固執します。しかし、それは錯覚です。物のほうは「私はあなたのものよ」とはぜんぜん思ってくれません。ただそこに存在しているだけです。だから何かことがあれば他人のものになりますし、燃えたり、壊れたりします。なくなります。それでおしまいです。私と所有物との関係はすべてまぼろしで、あっという間に消えるのです。
にもかかわらず私たちはそれがなくなれば悲しみ、人に奪われれ場怒ります。自分の従属物だと思っているからです。財産もそうです。子供もそうです。自分のものだと思うから守ろうとしたり、心配になったり、不安になったりするのです。足かせになるのです。所有への執着が強ければ強いほど、失われたときの苦しみも大きくなります。そこをよく理解しなければいけません。
所有の執著心に対するお釈迦様の総括を見ましょう。
「比丘らよ、およそ何であれ、常住で恒久で永遠で変化することがなく、いつまでもそのままの姿であり続けるような、そんな所有物というものを、私はいまだかつて見たことがない」(マッジマ・ニカーヤ22)
「名称とかたちあるものについて『私のものだ』という思いをまったく持たず、何かがないからといって憂えることのない人、そういう人こそが出家修行者(比丘)と呼ばれる」(ダンマパダ367)
永遠に自分のものとして所有できるものなどありません。それを理解するからこそ、人は出家して修行の道に入るのです。
いま述べたような「所有」とは少し違う意味で執著の無意味さを語っているのが次の句です。とても考えさせられます。
「立派に組み上げられた筏[いかだ]も、激流を越えて向こう岸に渡ってしまえば、もう筏としての意味はなくなる。神よ、もし雨を降らせたいと思うのなら、大いに降らせるがいい」(スッタニパータ21)
大雨が降って川が激流になっています。そこを渡るために何日もかけて一生懸命立派な筏を組んで、よくやく向こう岸に渡ることができました。しかし、渡ってしまったら、あとはそんな筏は捨てなさいと言っているのです。
ここでいう「筏」は何を意味しているのかわかりますか?わかる方、おっしゃってみてください。……と、いらっしゃいませんね。では、申しましょう。これは「お釈迦様の教え」のことなのです。向こう岸というのはここでは悟りの世界という意味であり、そこへ渡るための必要な智慧としてお釈迦様の教えがあるけれども、渡り終えてしまったらその教えももはや無用です。無用だとわかっているのに、それにしがみついているのであれば、それもまた執著の心だから捨てろとおっしゃっるのです。このくらい徹底して捨てきらないと、真に解放された境地とはいえないのですね。
真にすべての執著から解放されれば、おのずと苦しみからも解放されます。
「輪廻の流れを断ち切り、なすべき善もなすべからざる悪も捨て去り、執著のない比丘には苦悩がない」(スッタニパータ715)