「酒場から喧嘩も人生論も消えた - 赤塚不二夫」文春文庫 89年版ベスト・エッセイ集 から

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「酒場から喧嘩も人生論も消えた - 赤塚不二夫」文春文庫 89年版ベスト・エッセイ集 から

都会の酒場から、けんかが失われてしまって久しい。
酒の上の政治談義や芸術論にエキサイトして、思わず殴り合ってしまう光景など、そのメッカといわれた新宿ゴールデン街でも、めったにお目にかかれなくなってしまった。
人びとが妙に静かに飲むようになって、もう十年以上を過ぎているのではないか。酒場からギター流しの姿が消え、店内には弾き語りと称する“先生”が、酔客の伴奏を務めるようになり、やがてカラオケ全盛時代となった。
こうしている内に、我々のまわりから「人生論」もほとんど姿を消してしまったのだ。酔って人生を語ることはダサイことであり、まして、その人生観で相手と衝突するなんてことは、恥ずかしい。そう考える人の方が圧倒的に多くなった。そして、人生論のかわりに登場してきたのが「ライフスタイル」という言葉だった。人生論とライフスタイルの違いは何だろうと、考えてみる。するとあっさりと答えが出た。
人生は破滅させるようにも生きられるが、ライフスタイルの種々のコースにそれは全くないということである。
だから、ぼくのような勝手気ままに生きている漫画家には、決して今様のライフスタイルは持てない。というより、ぼくはライフスタイルの敵と言われても仕方あるまい。ライフスタイル人間は、音楽演奏に例えれば譜面中心人間だ。しかし、即興演奏のないジャズは気の抜けてしまったビールのようなものである。インプロビゼーションしないで、何が人生[ジャズ]か。
飲んでいて、面白い人間に出会える酒場が減っていったのは当然のことである。ぼくは自然と新宿に行く回数が少なくなった。そのくせ、酒の量はどんどんふえていったのだから皮肉である。仕事に悩みはじめたのだ。
というのも、自分ではっきりと面白いと言えるほどのナンセンス漫画がかけるのは、精々四十歳どまり。それを過ぎたら、加藤芳郎氏ほどの天才でなければ不可能なことだ。まして、ぼくのようにスタジオ・システムで大量生産してきた人間は、その反動も大きい。だから人気も一気におちこんでしまう。それにめげて、創作意欲を失ってしまう時期が、四十を過ぎるとたちまちやってきた。とっくに覚悟していたことだが、こればかりは、仕方がない。自分で受けとめるしか方法がないことなのだ。それが、わかっていたのなら、「ギャグ漫画家として長生きするライフスタイル」を考えておくべきであった、と言われそうだ。
そうすれば、収入を確実に維持しながら、大量生産時代に得た大金を財テクして、悠々と豊かに生きられた筈ではないかと。しかし、どんなに財政的に豊かであっても、作品がもう面白くかけないという、作家としてギリギリの悩みは解消できないのではないだろうか。
ましてぼくは経済を基盤として、人生を“国債化”し、二十年後に豊かさとして全額受けとるなんてことは、いやである。第一にめんどうだ。こうしたライフスタイルを維持するためには、いま、この瞬間、自分の生の充実感を過剰に求めたりしないように、感情をコントロールしながら生きなければならないからだ。だが人間は刻々と変化する意識の中で生きている筈で、スタイルという囲みの中に閉じこめられるものではないと思う。
それを、あえてシステム手帳のごとく、自分のあらゆる要素、可能性といったものを、ひとつのスタイルに美しくまとめあげ、それに沿って淡々と生きることを「カッコイイ」とする。だから、急に思いついて、仲間で集まって草野球するのはカッコワルイ、ダメな連中だという。むしろ二週間前からゴルフの約束をして、それは自分のスポーツ計画の、ひとつの流れの中のスケジュールとして消化する。そして、その行動によって回復したパワーを、ビジネスにフィードバックして、充実した時間を過ごす - これがカッコイイとなる。ライフスタイルは、あくまでも光り輝く生へと志向するというわけだ。
完全なライフスタイルに出合ったら、新約聖書の「死よ、お前の勝利は、どこにあるのか」(「コリント人への手紙」)という言葉も、赤面して、引っ込んでいくかも知れない。
聖書によれば、死は終りではなく、眠りにすぎないそうである。ちょっと眠りについたつもりで、それっきり起きなければ、楽である。天国へ行けるのだ。だからこそ死はこわい。破滅型人生を生きているから、ぼくは死なんかこわくないなどとは決していわない。おかっないのだ。
酒を飲み過ぎて、アル中状態といわれると、すぐ医者のところへ飛んでいく。飲み過ぎるたびに十日間ほど入院してしまう。医師の忠告を振り切って、新宿を飲み廻るなんてことは、やらないのである。
だからって、ぼくは飲酒することに対して、決して何の反省もしていない。この状態を完全に回復させるための「計画」というものを持とうとしていないのだ。
そのために、ぼくの身内は、ほとほと手を焼いているに違いない。要するにぼくは初老のダタッ子である。死へ突っ走ることはしないが、急ぎ足だ。冷静に、クールに、計画的に、強固な意志を持って生きることが出来ない、意志薄弱の男にすぎないのだ。
かわりに、その瞬間を熱く生きてみたい。その場の“思いつき”で生きていってみたいのである。
たまたま、その思いつきが悪く、失敗して死んでしまうなら、それは仕方がないと、その覚悟だけはしている。
楢山節考」のおりん婆さんを覚えているだろうか。健康に長生きし過ぎてしまったばかりに、自分から石臼に前歯をぶつけて割り、息子に対して自分が老いたように見せる、あの木下恵介作品の田中絹代の演技.....。おりん婆さんは寒村の農民としての、しっかりしたライフスタイルを持っていたがために、あんなことになってしまったのではないか。
フレイザーの「金枝篇」によると、昔のアフリカの多くの部族の王などは、その絶頂を過ぎると、部下の手によって殺される習慣があったのだという。
つまり、王が病気などによって死んだりすると、霊魂も一緒に病んでしまい、弱い存在となると考えられていたのだ。だから王を永遠のものとするためには、彼がまだ健康な時に死亡させることが必要だったのだ。スポーツ選手の引退儀式と似ていなくもない。なかなか理想的な死に方である。
だが、僕らのような職業に引退儀式はない。絶頂期を過ぎても、漫画をかいていくしかないのである。印税で大型マンションを建て、その家賃収入でのんびり生活しながら、好きな作品だけをかく - そんなことは絶対にできっこない性格なのだ。だからこそ、ギャグ漫画家になれたのだと思う。
ベルグソンは、笑いというものを、機械的な“こわばり”から生命力が自由をとりもどすこととして、とらえているそうだ。
あとすこし、なんとか精神にこわばりのない人生を送ってみたい。