「カレンダー - 安藤鶴夫」ちくま文庫 書斎の宇宙 から

 

「カレンダー - 安藤鶴夫ちくま文庫 書斎の宇宙 から

師走の、ごたごたした郵便物の中に、カレンダーの送られてきたのがまじっているのをみつけるのは、たのしい。
いそがしいさなかに、ひょいと、その、あたらしいカレンダーの掛けられた元日の朝の、あのすがすがしさを思いうかべたりするからである。
そういえば、毎年、送られてくるカレンダーの数がふえていく。とても、自分のうちだけでは掛け切れず、大事にしてくれそうなひとに、もらってもらうことにしている。
カレンダーを、わたしはとても大切にする。いつのころからかは、よく、わからないけれど、ほんとうに自分の好きなカレンダーだけで、うちの壁を飾ろうと思い、きびしい選みかたをするようになった。
一年、三百六十五日、少し大げさにいうと、一日中、始終、みているカレンダーである。だから、いちばん、さいしょに、わたしは、自分の二階の仕事部屋に掛けるカレンダーをえらぶ。
四畳半のせまい部屋で、路地だけど、表の通りを背にした壁である。すぐ、その、右上に、細長い、古風な形の柱時計が掛かっていて、チクタク、チクタクと時をきざんでいる。
去年、本棚の一隅をはずして、ちち、ははをまつってある仏壇を、そこへ置いたので、仕事部屋の襖をあけると、かすかに、線香の、きれいなにおいがただようようになった。カレンダーは、その仏壇の、すぐ、わきの隅に掛けるのだから、めったに、女優さんが笑っていたり、ギャング・スターが苦[にが]ッているような、そんなカレンダーは掛けられない。
ことしは、こころひかれたカレンダーがたくさんきたので、正直、なにを書けようか、と、少し迷った。
そして、いちばんさっぱりしている野村證券の、絵も、写真も、なんにもないで、大きく、ひとつき、ひとつきの、日だけが書いてあるカレンダーを掛けた。
カレンダー関係の専門用語でいうと、の、なに曜、なん日という数字の部分のことを、タマというのだそうだか、わたしは、その、いちばんさっぱりしたタマだけのカレンダーを、まず、えらんだことになる。
それから、朝、歯をみがいたり、タオルで顔を拭いたりしながらみるカレンダーも、わたしにとっては、たいへん、大事なカレンダーなのである。
このところ、ずっと、毎年、三越のを掛けていたが、ことしははとバスのにした。二た月掛けのカレンダーで、まん中に、一本、黒く、太い選を引いて、上に、北斎と、広重の、江戸の名所を描いた浮世絵が出てくる。
さいしょの、北斎富嶽三十六景のうち、駿河町、三井見世略図、というのが、とくに刷りあがりの出来ばえがいい。駿河町の、呉服物の店と、組物、糸類の店と、ともに、三井の紋のついた看板のあいだに、なんとも、すっきりとした富士がみえる。凧がふたつ上がっていて、右っ側の、呉服物の方の大屋根に、三人、瓦の職人がのっかっている。いま、下の屋根から、上の屋根へ、仕事につかう、ワラに包んだものを、ぱっと、ほうり上げた瞬間が描かれている。職人は、むろん素足で、はっと、両腕をひろげているポーズは、さすがに北斎のリアリズムだ。
それから、三月、四月は、広重の、吉原の夜桜、と、いうふうに、たのしめるカレンダーだ。
また、仕事部屋にもどると、机に向って、左側の本棚のサイドに、いつも、なるべく小型の、かわいいカレンダーを掛けることにしている。去年は、タケダの化粧品の、なんとも気のきいた、しゃれたのを掛けていて、ひそかに、ことしもまた、送ってくるだろうと思っていたら、こなかった。
そこで、これよりは少し大ぶりだが、“円空暦”を掛けた。表紙の珊底羅[さんてら]大将が、まず、いい。お薬師さまの眷俗属[けんぞく]十二神将のうちで、午[うま]の刻[とき]をまもる守り神だそうだ。めくると、上に、こんどは乙護法の像の、マスクの大写しになって、下に、ダーク・ブルーに白抜きの、二か月分のタマがある。仏壇のある仕事部屋に、ふさわしいカレンダーだ。

階下の、茶の間に入ろうという壁に、その日その日の、わたしのスケジュールを書く大きな黒板がつってある。
この黒板のわきに、ちいさな、一か月のタマが欲しい。ここは毎年、浅草うまいもの会が送ってくれる、横に長い、ケース入りの、一枚一枚のカレンダーを使うことにしている。去年は釜めしの春が送ってくれたが、ことしは区役所通りのアンジェラスから、送ってきた。
タマの上に、ちいさく、浅草の、月月[つきづき]の行事が書いてある。たとえば3月だと、18日・浅草観音示現会[じげんえ]、それに金竜の舞とあって、21日・彼岸の中日、とある。カードの裏を返すと、いちいち、その行事や縁起の話が書いてあって、これも、かわいいカレンダーだ。
そのほか、ことし送られてきて、こころひかれたカレンダーは、首都高速道路公団の、東京の、ハイウェイを通してみたカレンダーである。4号線の千駄ヶ谷界隈、神田橋、千鳥ヶ淵、弁慶堀なんか、うちのちかくなどということはべつにして、みんな、すばらしい。江戸橋のインターチェンジなんか、東京にあたらしいけしきが出来たと思われる、それほどたのしい写真だ。
それと、日本国有鉄道の、なんでもない日本の、写真なのだが、さりげなくって、これも好きである。ことしは、1月は釧路の丹頂ヅルで、3月、上野公園の五重塔の夜ざくらも、出来のいい写真である。
日本専売公社の、外国の、タバコの器具をアレンジしたカレンダーもいいが、わたしは去年の、江戸のタバコ盆を集めたカレンダーの方が、ずっと好きだ。
好きなカレンダーは、いくら、もう古暦[ふるごよみ]になったからといって、むだに、すてることの出来ない男で、わたしは、そっくり、そのまま、取って置くことにしている。
去年、わたしは月島機械株式会社から送られたカレンダーをもっとも、愛した。上に、厚いボールの台紙で、佃大橋を隅田川の上から、橋の裏側を写した写真である。ほとんど、画面、いっぱいに、赤い色の橋の腹をみせておいて、左に、あの明石町河岸[あかしちようがし]をいったり、きたりしていたポンポン蒸気が、いま、佃に向っているところで、その向うに、からッと澄んだ、夏のはじめの空があって、住吉神社の鳥居と、佃の家並みがみえている。
若い詩人の、ペンで書いたのが、のっているのだが、わたしには、その詩では、どうにも気に入らないのである。
すぐ、わたしは自分の使っているグレーで印刷させた原稿紙に、ペンテルで、木下杢太郎の詩を書き、それを切り抜いて、ちょうど、その上に貼ったら、すばらしいカレンダーになった。
房州通ひか、伊豆ゆきか。
笛が聞える、あの笛が。
渡わたれば佃島
メトロポオルの燈が見える。
下に大きなゴジックで、一か月のタマがぶらさがっている。
月島機械株式会社なんて、まったく、わたしにゆかりのある会社ではない。どうして、送ってくれたのか、と、少し、考えていたら、思いあたることがあった。
佃大橋が出来たとき、わたしはマイクを持って歩いては、録音構成というものをつくって、放送したり、それからまた、佃島のことをエッセイに書いて、それをラジオで朗読したりした。そんなことで、佃島の写真を、一年中掛けておかれるカレンダーを、きっと送ってくれたのであろう。
そのことがまた、なにかひどく、東京の人情のような気がして、うれしかった。
捨てられず、書庫に、しまってある。