(巻三十五)何もせぬことも勤労感謝の日(京極杞陽)

(巻三十五)何もせぬことも勤労感謝の日(京極杞陽)

12月19日月曜日

2度まで下がったらしい。起きて直ぐにパジャマを着替えた。部屋に暖房器具は一切ない。重ね着には厚手のパーカーが残っているが、ここで手はつけまい。

細君が生協に行っている間に年賀状の宛名書きを致した。5枚出すのだが、ちょうど5枚しか買っていないので慎重に書いた。あとは裏の余白を埋めるのだか、あまり書くこともない。少しずつ書いていこう。

気温は上がらないが、陽射しはよく、風はないので毛布・蒲団と干した。

昼飯食って、一息入れて、餡パンとジャムパンを食った。寒いと腹が減る。

散歩に出かけて、図書館のポストに2冊返して、稲荷のコンちゃんと戯れ、都住のクロちゃんと遊ぶ。コンちゃんが初めてタッチさせてくれた‼クロちゃんはジ~ッと私を見つめてくれる。

生協により安売りのつぶ餡パンを3個買い、郵便局で葉書を1枚買う。飲みたくはなく、おとなしく帰宅した。

買った葉書に

《おでん酒ここも銀座といふ場末》

と書いてみた。

細君が野菜を切り終わってから豚肉を買い忘れに気付きパニクっている。買いに行こうかと申し出たが「鶏肉でなんとかする」という。料理上手の妹に電話して知恵を授けてもらっているようだ。

ビックカメラから取り寄せ品が届いたと連絡あり。レシートを紛失したと相談したところ、メンバー・カードと公的なものを持参とのこと。

ここ迄はまだ物忘れ山笑ふ(笠井由紀子)

願い事-涅槃寂滅です。昏睡にしてからお願いします。意識は最期の二日前に不明にしておいてください。

昨日、腎不全作品を二作品読み返していると書いたが、もう一作品あった。

「いろいろの死 - 尾崎一雄岩波文庫 日本近代随筆選1 から

で、その中に若くして腎臓炎で亡くなられた妹さんのことも書いてある。一年弱の闘病だが、若いからだろう。少なくとも激痛などのことは記されていないから、激痛はなかったのだろう。やはり腎不全がよい。

「いろいろの死 - 尾崎一雄岩波文庫 日本近代随筆選1 から

人間が、いよいよ死ぬ、呼吸を引きとると云う刹那の有様を、よく見て置きたいと思ったことがある。今せう云うことを考えていると云うのではない、かつて考えたことがあるのである。なぜそんなことを思いついたのか - その原因は、多分或る頃の私が、余りにたびたび人間の死を見たからであろう。そして、そんなにたびたび人の死に場に居合わせながら、あとで思い返して見ても、死の刹那というものがハッキリ印象に残っていない、どうしてもその時のことが頭に浮ばないことに気づいたからであろう。それは全く不思議なほどボンヤリした記憶しか私は死の刹那について持たない。その時はハッキリと印象されたものが、忘れっぽい私の頭のせいでだんだんとボヤケて了[しま]ったものか、或いはまたその場にいる私が、純粋な印象を受け入れるために障りとなるいろいろな感情にとらわれているためか、さらにまた生物と云うものはいつとなく(それは極めて短い時の間ではあっても)死んでゆくものだからであるか、その辺のことも私には判らない。兎に角変なことであると云うの外[ほか]はない。

祖母が死んだのは、私が七つのときであった。この人は強情な、男のような気性の人であったが、自分の病気を死病だと云って誰がなんと云っても薄笑いをしていた。大して苦しみもせず死んで行った。いつのまにかつめたくなっていたのである。

母の母が死んだのは、私が九つのとき。これは、早く早くと女中が呼びに来たので、駆けつけると、みんなが熱心にその顔をのぞき込んでいた。医者が手を握っていた。もう少しも動いてはいないようでだったが、死んだと皆がざわめき出したのは大分経ってからであった。私はこの人の死の姿より、早く早くと女中が呼びにくるまで遊んでいたその遊びの方をハッキリ覚えている。母の実家の近所に女学校があり、もう学校がひけて生徒の一人もいない運動場の隅で、私は近所の子供三、四人と遊動円木にのっていた。その中に一人、十六、七の大柄な、青年と云っていいのがいて、派手に一人でやって見せていたのが、誤ってころげ落ちた。半ば遊動円木の下敷になり、漸く自分で這い出したが背中を打ったと見え、あぐらをかいたまましかめつらをして背中を痛そうに延ばし、どう云うわけか「芝居見に連れていってくよ」とその地方の方言で云った。そんな様子の方をハッキリ覚えている。

祖父は私が十三の時死んだ。中風で寝ていて、母に随分世話をやかせた人だった。勿論私はその場にいたわけだが、よく覚えていない。

私が十八、九の頃、生れて間もない弟が死んだ。月足らずで、弱かった。始めから無事に育つかどうか危ぶまれていたが、一週間目かに死んでしまった。母と私が、代る代る抱いては、じっと顔をのぞき込んでいた。母が抱いているとき、赤ん坊は首をそらし、細いあごを落すようにして開いた口で、かすかな呼吸をしていた。それまでを覚えている。

父が死んだのは私が二十二の時だ。父は眼をつむったまま、何か云いつづけていた。唇を少しうごかして、割に大きな声で何か云うのだが、意味は全然判らない。朗々と云っていい位の声が、死ぬ前の人によく出たものだと今でも思う。二十二をかしらに四人の子供を置き去りにする、と云うことが頭を離れず、一心に私達に向って云いきかせていたのであろう。私達に話は通じていると思ったことだろう。そんなに声を出しながら、表情はまるで木彫の人形のようで、少しも動きはしなかった。その声もだんだんと小さくなり、やがて黙って了うと、呼吸をするたびに小鼻がひくひくと動いた。引く呼吸の方がだんだんと多くなり、フッと呼吸がとまったと思うと、また大きな呼吸をした。しかし、ハッキリああ死んだと思った印象はない。

上の妹が、二十一で死んだ。三つ違いだから、私が二十四の時だ。私が一番悲しんだのは、この妹の死だった。その頃私は肋膜炎をやり、学校を休学して郷里の家で療養をしていた。妹は腎臓炎だったが、私が病気中に病み出し、私が全快しないうちに死んで了ったのだ。妹が病んでいる一年の間、私は病人ながらも妹の看病をした。母は私と妹の二人の看病で、よく身体がつづいたと思う。妹は私の云うことでないときかなかった。尿毒が頭に来て、殊に視神経を犯され、歩いている人が逆さに見えるときがある。「逆さに歩いてはいや」と云われるのはつらかった。妹が私の云うことだけは何でも信じている様子はあわれで、私は看病に全力をつくしたが、とうとう死んで了った。その癖妹が呼吸をひきとるときのことはちっとも記憶にない。覚えているのは、妹の死体を母が泣き乍[なが]らアルコールで拭いてやったことや、その顔を紅やおしろいで化粧してやっていたことだけだ。私は、大正十四年四月、初めて出した同人雑誌の第一号にこの妹の死を材料にした小説を書き、翌十五年十月には、その小説に手を入れたものを「新潮」に出して初めて原稿料を貰った。私が早稲田を出る前年である。

病気が治って上京し、また早稲田辺で下宿生活を始めて間もなく、隣室で知らぬ人の急死を見送ったことがある。隣室の主は、大阪の方の若い学生だったが、その学生を訪ねて一夜泊った同郷の男が、夜中の二時頃突然発病したのである。私は誰かと酒を呑んで遅く帰り、鼻唄をうたっていたのであるが、隣室のうなり声がいつまでも止まず、だんだんと激しくなるので、出かけて行った。すると三十年配の大きな男が身を揉んで苦しんでい、側に部屋の主が途方にくれた顔で坐っていた。私は主と相談して直ぐ医者を呼びに行った。駆けつけた医者は、病人を見ると首をひねって、もう一人医者を呼んでくれと云った。それで私達は事態の急なことを知ったわけである。二人の医者は私の部屋で顔をつき合わして相談してしていたが、つまりこの病人はもういけないと云うことであった。私は同宿の自分の友人をたたき起し、男の実家へ電報を打ったり、車屋へ行って病人用の俥を頼んだりした。暁方の五時頃病人は死んだ。脚気衝心[かつけしょうしん]と云うことで、苦しみ出してからまる三時間だった。全身に紫の斑点が現れ、小便を流していた。柔道初段とか二段とか云う二十貫近い大男で、死体を運び出すのに大骨を折った。その男は、大阪人で妻子持ち、何か用で上京中、脚気がよくないようなので帰阪するつもりで、名残りに前日三田稲門野球戦を見たと云う。呼吸のきれるときのことは、やはりどんなだったか記憶にない。

大正十二年八月下旬丁度関東震災の一週間前に、郷里の下曽我の家に遊びに来ていた母の父が急に亡くなった。祖父は下手の横好きという方の碁打ちで、いい相手の私をつかまえてはよく閑を消していた。三島中洲の弟子で漢詩などもつくり、書も書いた。静岡県三島の大社の宮司をやめてからは、先ず楽隠居と云った身分だった。

- 或夜九時頃、私と碁を打っていた祖父が、手番なのに妙にぐずぐずしているのでふと気づくと、碁石を額にあてたり、こめかみにあてたりしている。石をとりかえてはそんなことをしている。どうなさいましたと云うと、いや、少し頭痛がするので、石で冷しているのだと云う。よく見ると顔など少し赤味がかって、上気しているあんばいだ。私は一寸心配になって、碁は止めましょうと云った。なに、大したことはあるまい、などと云っているうちに、言葉が怪しくなってきた。舌がもつれている。ロレツが廻らぬと云う様子なのだ。私は慌てて母を呼んだ。顔を出した母に床を敷くように頼み、弟を呼びつけて直ぐに医者に走らせた。

翌朝五時頃、祖父は七十一で死んだ。脳溢血である。近所に元政友会の代議士で祖父と同年の人があり、よく行き来していたが、その人は祖父の枕元で泣いていた。わしの話の判る人はあんただけだが、などと随分悲しんでいた。その人は、ラツ腕で有名な代議士だっただけに、そんな様子を見ることは変な気がした。

それから一週間して大地震があり、私どもの地方ではどの家も倒れ、うちでは母と私が負傷したが、老代議士はその老妻とともに圧死した。祖父が若し地震のときまで生きていたら、祖父は勿論、祖父に引きずられて母か私かが圧死していただろう。

以後十五年間と云うものは、人間の死の床に侍したことがない。無い方が我人ともに幸いである。

人間の死などて云うものは、私の見聞きして来たところでは、一寸したことで左右されるものらしい。例を判りやすく震災などにとっても、あのとき母にしろ私にしろ、家の東側の方へ逃げだしていたらつぶされていたことになる。下曽我辺の家々は、地震の波の工合[ぐあい]で、みな東側へ倒れた。だから東へ逃げたら、屋根やのきに追いかけられて助からなかったわけだ。また、妹は、休み中の女学校へ、先生の了解を得て一人ミシンを習いに行っていたのだが、地震と思うと直ぐミシン台の下へかくれた。少し鎮まったので、荷物をまとめ、階段を降りようと這ってゆくと、直ぐ鼻の先に校庭が来ている。つまりどかんと来た拍子に二階がそのまま階下になってしまったわけだ。そのとき若し急いで階段でめ降りにかかっていたら、手もなくやられていたのである。

何はともあれ、生きていると云うことは有難い。生きていていろいろのことをし、いろいろのものを見られると云うことは、かけがえのないことだ。「つまらぬことでも撫で廻していると面白い」と或る小説に書いたら、最近の「朝日」で本多顕彰氏から叱られたが、僕にとっては本当は何でも面白いので、つまらぬと云うのは、いわゆるつまらぬと云う意味だ。だから僕は決して退屈しない。只寝そべっていても一向退屈しない。見なれたことでも仕なれたことでも、そのときどきに新鮮な味を示す。社会的関心がないわけではない。小説にも表わしてある筈だが、大いに積極的とは云えないから目立たぬのだろう - 話が外れそうだから止める。兎に角この三、四年来、生きていることの有難さを痛感しつづけている。