「23番福神橋~月島通八丁目 - 石堂秀夫」懐かしの都電41路線を歩くから

 

「23番福神橋~月島通八丁目 - 石堂秀夫」懐かしの都電41路線を歩くから

隅田川の左岸を忠実になぞる珍しい路線

隅田川の東岸一帯を、昔の文人たちは「墨東」の雅称で呼び、永井荷風にも「墨東綺譚」という名作がある。この作品には、昭和一一(一九三六)年の「市電二五周年」に、花電車が走ったという興味深い場面も描かれている。
永井荷風は浅草をはじめ、隅田川のほとりの下町をこよなく愛した作家で、それだけに彼の作品には、物語りの背景にしばしば昔の「市電」や都電が登場する。
いずれにせよ、墨東地区を出発点とする都電は、おおむね大川(隅田川)を渡って都心に向かうのだが、この23番だけは最後まで隅田川を横断しなかった。
そして隅田川の左岸を終点の月島まで走り続けた。その意味で23番は珍しい路線だったといえよう。
始発の福神橋[ふくじんばし](墨田区文花二丁目)は北十間川[きたじっけんがわ]と明治通りの交差点である。
ここから、浅草通りがはじまるのだが、右手に運河の北十間川をひかえ、柳の並木のある福神橋は、今でも、下町風のほのかな詩情をたたえていて何となくなつかしい。
23番は同じくここから出ている須田町行きの24番とともに南西に直進し、京成電鉄押上駅を右にみて、本所吾妻橋の手前に至る。ここには寺島二丁目発の30番もやってきて、道は二股に分かれている。右に行けば吾妻橋で、左に行けば駒形橋だ。
左に進む23番は、ここで24番と30番と別れ、駒形橋(東詰=東駒二丁目)を渡らずに、さらに左に曲って、本所の清澄通りをほぼ一直線に南に進む。
現在の江戸東京博物館の裏手から国電のガードをくぐった所が、京葉道路(国道一四号)と交差する十字路で、電停は東両国緑町(緑一丁目)といった。
緑町から清澄通りをさらに進むと、森下町の交差点に出る。すぐそばには「みの家」という馬肉のすき焼きを出す店があって、これも江戸の名物のひとつだ。とにかく店に入ると昔風の下足番がはきものの下足札を渡してくれる。料理の元は馬肉だから通称森下町の「けっとばし」というのである。ついでにいえば、江戸っ子はヘソ曲がりだから、暑い夏に汗をかきながら暑い馬肉のすき焼きを食べる。それが「通」だというのである。
いずれにせよこの辺からがいわゆる江東区の深川地区だ。これまで通ってきた墨田区の本所もそうだが、深川も運河の町といえる。縦横に掘られた運河は、様々の物資を運ぶ水上交通を発達させた。その代表が隅田川清洲橋近くに連絡する小名木川であろう。

紀伊國屋文左衛門ゆかりの清澄庭園

小名木川は、徳川家康が江戸入府の際、下総の行徳の塩を運ぶため、小名木四郎兵衛という者に開削させたものである。
その小名木川隅田川にそそぐあたりに、万年橋がある。橋のたもとは、江戸深川の松尾芭蕉庵があったところといわれ、それを記念して「芭蕉稲荷」がまつられ、すぐ近くには江東区が管理する芭蕉記念館がある。
森下町の次の電停は高橋[たかばし]だが、今に残るこの地名も水運と大いに関係があった。
すなわち、小名木川を通る多くの荷船に備えて橋脚を高くした。だから高橋なのである。その上、葛飾北斎が橋の高さを思い切り誇張する絵をかいたので、高橋は大いに有名になった。
その先の清澄町には、東京都が管理する清澄庭園がある。ここは元禄期の豪商紀伊國屋文左衛門の屋敷があったところだ。紀文の没落後は、正徳五(一七一五)年ごろに下総関宿藩主久世大和守(五万石)の下屋敷となり、池のある優雅な庭園の骨格が完成した。
永代通り門前仲町を横断し、越中島の電停から晴海運河に架かる相生橋を渡れば、もうそこは佃島だ。
佃島には上方の摂津西成郡佃村の漁師三〇余名が移住し、家康から隅田川河口の特別漁業権を許されたという。そのかわり、獲れた魚の一部を幕府に献上する義務を負っていた。今の住民にも当時の子孫が多く、彼らは小魚の佃煮を発明し、江戸の食文化に貢献してきた。
もう一つ佃島の名物といえば「もんじゃ焼き」がある。私の遠縁で佃島生まれの弟分のような男は、よくこう言った。「兄さん、もんじゃ焼きというのはね、お好み焼きをもっと水でうすめて、そこらにある残り物を何でもいいからぶち込んだものなんだ。まあ、そんなものでも、子供の頃の俺たちにはうまかったがね」。
要するに観光化されて豪華になった今のもんじゃ焼きとは違うといいたいらしい。
その先の終点の次の月島通八丁目は明治二八年に埋め立てられた人工島である。本来は工事の経過を思わせる「築島」であったが、ここもいつの間にか月島の雅称が定着した。かつての月島には庶民的なささやかな商店街があったりして、独特の雰囲気があったが、今は地下鉄も通って高層ビルなどが立ち、昔の面影はなくなった。