「曾良の随行記 - 井伏鱒二」還暦の鯉 講談社文芸文庫 から

 

曾良随行記 - 井伏鱒二」還暦の鯉 講談社文芸文庫 から

先年、私は松尾芭蕉の「奥の細道」と曾良の「奥細道随行記」を読みくらべながら、一茶のいわゆる奥の細道の杖の跡を巡る旅を真似た。「奥の細道」は、旅行記というよりも私小説と見るべきだという説もあるが、芭蕉がこの旅行記(あるいは私小説)を書くについて、どの程度まで脚色を加えているかに興味があった。
曾良随行記には全文にわたり、どこにも主観を入れて書いている箇所が見つからない。師の芭蕉を深く尊敬し、おろそかな批判は慎しもうという気持が圧倒的であったものと思われる。おそらく曾良は旅の宿で、控えの間か別室のほの暗い行灯の灯のもとでこの随行記を書いたものと見え、その自筆本の写真版で見ると筆蹟が崩れていて読みにくい。ちび筆で書いたような形跡である。活字本で見ても、読み屋が読み間違えたと思われる箇所が尠くない。所の名前なども、実地に照らしてみると間違っているのがある。しかし「奥の細道」にくらべると、地理的な間違いや所の名前の間違いなどは随行記の方が遥かに尠い。もとより「奥の細道」には脚色が多いので、書いてある事実も随行記と比較すると大きな食い違いを持っている。芭蕉が旅を終って後日に書いたものとはいえ、決して記憶の間違いで書いたものとは思われない。
芭蕉奥の細道の道中に旅日記を書きつづけていたかどうか、私にはわからないが、もし書いていたにしても「奥の細道」を執筆するにあたって、参考にしたとは思われない。当人としては旅の経験の形骸の問題でなく、旅愁というようなものでも現わすのが問題であったのだろう。

曾良随行記によると、芭蕉の旅は当時としては一種の大名旅行であった。行くさきざきで大金持や城代家老や一流の温泉宿や長老別当などの歓待を受け、川に船の通ずるところは小舟に乗せられる。馬の通ずるところは馬に乗せられている。しかも場所によっては責任を持った案内者がつけられているが、書いている文章では西行法師のように淋しそうな自分の旅姿を出している。
「‥‥‥終に路ふみたがへて石の巻といふ湊に出づ。こがね咲くと詠みて奉りたる金華山海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて竈の煙立ちつづけたり。思ひかけず斯から所にも来れる哉と、宿からんとすれど更に宿かす人なし。漸くまどしき小家に一夜をあかして、明くれば又知らぬ道まよひ行く‥‥‥‥。」
これは一例にすぎないが、石ノ巻で芭蕉は一見虐待されたように書いている。さすらいの旅人のような姿に書いている。しかし曾良随行記によると、石ノ巻に着く前に芭蕉は「ねこ村コンノ権左」(小野の城代家老)から、石ノ巻新田町四兵衛方へ宿泊するように紹介されている。すなわち四兵衛方に一泊し、翌日は北上川沿いの道を柳津というところまで四兵衛に見送られている。「宿からんとすれども更に宿かす人なし。」というのも、「明くれば又知らぬ道まよひ行く。」というのも大胆な脚色である。
現在、石ノ巻(ここから金華山は見えない。)の四兵衛の旧居は湮滅[いんめつ]しているが、新田町は伊達家の米倉のあつた仲町に接近する目抜の場所であったといわれている。しかも城代家老の紹介するほどの家だから「まどしき小家」であったとは思われない。すると深川の芭蕉庵は如何なる造りであったろうと興味がそそられる。
- しかし私は、芭蕉のこんなところにも元禄武士の大きさが感じられると思っている。むしろ私は、曾良随行記が発表されたことを秘かに喜んでいる。
「なぜこの書物が、もっと早く発見されなかったのだろう。」
私は、先年の奥州旅行で、那須温泉の和泉屋に泊ったとき宿の主人にそう云った。すると宿の主人が、
「私のうちには、昔から曾良随行記がありました。筆写本で、尾花沢までの日記です。半端本ですがお見せします。」
と云って、手ずれのした筆写本を見せてくれた。
それは「巳三月廿日出、深川出船、巳ノ下刻千住ニ揚ル‥‥‥‥。」という書出しで、まぎれもなく曾良随行記であった。表紙は月山神社の出納簿か何かの表紙を裏返しに折ったもので、透かしてみると「月山神社云々」と書いてあった。

この和泉屋という旅館は、那須温泉で古い温泉宿の一つと云われ、主人は昔から代々にわたって温泉[ゆぜん]神社の神主を兼ねていたそうである。随行記によると、芭蕉は黒羽の城代の家来角右衛門という者に馬で案内され、那須に来て五左衛門方に泊っている。この五左衛門というのは屋号を東和泉屋と云い、現在の和泉屋の分家であった。
古図で見ると、昔の那須湯本温泉場は、殺生石のところから流れ出る小川と、白河街道の交叉しているあたりにあった。それが安政のころ裏山の山津波のために全滅した。そのときに記録で奉行所宛ての「御役所向日記」という書類が和泉屋に残っている。
安政五年六月十四日、大雨の節(月山寺の裏山)山崩レ、人死多有之。-丸流、東和泉屋五郎兵衛六人、物置ニ住居仕、極貧ニ而、子供弐人幼少に御座候-。」
東和泉屋について、そのように記してある。しかし元禄のころの東和泉屋は、黒羽藩城代の賓客芭蕉を泊めた宿だから、本家の和泉屋を凌ぐほどの格式を持っていたのだろう。
安政の山崩れで湯本の温泉宿は全部二十軒が潰れたので、すこし高みの温泉神社へ詣る坂道の左右に再建された。現在の湯本温泉場がそれである。昔の温泉場の址は畠になっている。
曾良随行記によると、元禄二年四月十八日、芭蕉は東和泉屋五左衛門方に投宿、翌日は温泉神社へ参詣、神主に面会して宝物を見せてもらっている。「与一扇ノ的、残ノカフラ壱本、征矢十本、★目ノカフラ壱本、檜扇子壱本、金の絵也、正一位の宣旨、縁起等、拝ム。」と書いてある。
これで見ると、曾良随行記の筆写本が和泉屋に残っているのは当然なような気持がする。
昔から和泉屋の主人は温泉神社の神主を兼ねている。自分のところでお守するお宮のことを曾良が書いているのだから、筆写して残したものと見てもいいだろう。
「それにしても、この随行記を、なぜ世間に発表しなかったんです。」
和泉屋の主人に訊くと、
「もうよほど前に、芭蕉研究の或る学者にお見せしました。その学者は、何度もここへおいでになりました。」
と和泉屋さんが云った。
どうも腑に落ちないが、私は深くたずねるのを遠慮した。芭蕉研究の専門家なら、曾良随行記が見つかったら世間に知らせる必要を感じる筈である。ただ秘かに楽しむ快味に溺れていたのかもしれぬ。