「仁義なき闘い - 林望」03年版ベスト・エッセイ集 から

 

「仁義なき闘い - 林望」03年版ベスト・エッセイ集 から

親友に恋人を紹介したら、その親友に恋人を取られてしまったとか、妹の恋人を姉が奪ったとか、そういうことをよく聞く。そのような場合、人は、その奪った方の人を指して悪人呼ばわりすることが珍しくない。もしそれが「もの」を取ったということであれば、たしかにそれは悪行であって、指弾されても仕方がないと思う。けれども、こと「色恋」について言えば、そういう道徳的非難は当たらないと私は思っている。なぜならモノと違って、一方的に奪うなんてことはできないからである。つまり双方好きになっちまったものは仕方がないじゃないか。
かつて、佐藤春夫谷崎潤一郎の夫人に恋いわたって、散々に恋慕の詩などを天下に公表しつつ、結局その人を奪い去った。その時佐藤を非難する人もないではなかったが、歴史的に見れば、その悪行たる色恋沙汰からわが詩壇の宝ともいうべき佳什[かじゆう]が幾多詠じ出されたのだから、いっそありがたいというものである。
また、私の知るさる大学教授は、年若い妻を、出入りの若者に寝取られて離縁のやむなきに至ったが、そのことについて尋ねると「まあ、好きになっちゃったってんだから、仕方ないよ」と、まことに恬淡[てんたん]たる趣であったのは、はなはだ感銘を受けた。
同じくまたある役者がその妻をなにがしという高名な役者に取られてしまったという事件もあったが、だからといってこの同業者と言ってもよい二人が絶交したとも喧嘩したとも聞かない。それはそれで仕方ないさ、と円満なる大人の解決に赴いたのである。
こういう話はいくらでもある。その取った方を悪人、取られた方は被害者、というふうに見るのがまあ通俗の見というものであろうけれど、ほんとを言えばそういう見方は間違っている。よろず、色恋については、好きになったら法律も道徳もありゃしないのである。すなわち、もしこの男を取られたら困ると思ったら、親友でも恩人でもめったと紹介なんかしないことだ。あるいは妻を寝取られては不都合だと思ったら、妻が寂しさを心に抱くようにならぬように夫たるもの日々出精すべきところであって、その努力もなく釣った魚に餌はやらんなどとうそぶいていて、それで妻がほかの男に心を移したとて、非難するのは当たらない。むしろ己の不行き届きを反省してしかるべきところである。要するに、恋は思案の外ともいい、恋は曲者ともいい、昔から恋は無分別の上盛りなり行状だと知れてあること。そもそもが仁義なき闘いなのだ。それを、道徳だの仁義だの、まして法律なんか持ち出してきて、人の心に鎖を懸けようなんてこと自体がそもそも大間違いというものだ。
私の見るところ、世の中の「夫婦」ってものは、たいてい空洞化していて、外から見ればオシドリ夫婦、よくよく見れば仮面夫婦なんてのがさらに珍しからぬ。それでも日本ではそれほど多くの夫婦が離縁に至るわけでもない。これは日本人が夫婦愛に満ちているからではなくて、要するに「女の自立・男の自立」が進んでいないことの証左である。女は一人では経済的に立ち行かぬから気に入らぬ男でも随従していよう、男は一人では朝飯一つ作れないからしょうことなくこんな妻でも離縁せずにおくか、とこんな共犯関係の仮面夫婦が多いのが、案外その根本の理由であろうと私は睨んでいるのである。
一方で日本人は大昔からほぼフリーセックスと言っていいくらい、色事には寛容な民族であった。昔の人は道徳的で、今どきの若いものは堕落した、なんて寝言を信じている人はまことにおめでたい。昔も今も、私たち日本人は盛大に色恋に身を焦がしつつ、豊かなめでたい人生を送ってきたのである。
とこう書くと、なかには柳眉を逆立てて、「うちはそんなことないわ」と憤激する人もあるだろう。けれども、そう憤激する人がほんとうに夫婦理解しあって幸福な生活をしているという保証などどこにもない。案外奥方の独りよがりかもしれない。
もしそういう不服を申し立てたいあらば、ぜひ拙書『私は女になりたい』を一読されたい。私はここに、色恋には仁義のなき趣を委曲を尽くして書いておいた。これを読んでもなお信じない人は、まことに幸福な少数の一人であるから、これは私が謝りますが、しかし、それはあくまでも例外的少数なのだということを、どうしても言っておかなくてはならぬ。
私は女になりたい』という題名はたしかに十分にアヤシイけれど、別に女装癖の告白でもなければ、男色のカミングアウトでもない。これはまったくそういう意味で、この世がいかに色恋の仁義なき闘いに満ちているかということをあっちからこっちからつくづくと眺めつくした、そういう正直至極なる書物にほかならないのである。