(巻二十四)春愁の男厨は演歌かな(宮利男)

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2月12日水曜日

とじ傘
男の子特定記録郵便郵を出すために郵便局に行った。局員さんに料金を確かめてもらい、持参した昭和の記念切手を五枚並べて貼った。記念切手は大きめなので五枚貼ると封筒の上から下まで連なってしまうが、物持ちのよい細君の資産の有効利用である。
郵便局から図書館に回ったが途中で見事な白梅を一撮いたした。

庭先の梅を拝見しつつ行く(松井秋尚)

野村克也氏が亡くなったが、沙知代夫人は2年前、2018年の12月に亡くなっている。絆の強い夫婦だったのでしょうから。
以下の考察を思い出しました。

本

「あきらめる - 水野肇」中公文庫 夫と妻のための死生学 から

《夫婦ももっと年をとって六十五歳ぐらいになると、一日じゅう、二人で話をしている。よくあんなにも話をする内容があるなと思うが、そこはよくできている。老夫婦の場合、夫も妻も脳が適当に老化して、記憶力が低下し、同じ話を新しい話とお互いに思って何度もしているわけである。息子や息子の嫁がきいたら「もうこの話十回目だ」ということになる。夫婦というものはお宮の唐獅子のようなものである。向かい合って四十五年とか五十年とかいうのが多い。問題は向かい合っていることなのではなく、その間を誰が通り過ぎたのかということにあるのだろう。
少し不謹慎な話かもしれないが、あきらめるということには、元来こういう面もあるということをいいたかったのである。ついでにもうひとつ紹介しておくと、あらゆる統計をみても、独身者は妻帯者より寿命が短い。それだけではない。一定年齢以上生きていたい人は、必ず、現在の奥さんを大切にすることである。たとえ、その奥さんが二度目であっても、三度目であっても。それというのは、男性は六十歳をすぎて奥さんを亡くすと、その七〇パーセントぐらいの人は三年以内に死ぬことになっている。ただし、奥さんのほうは六十歳すぎて夫を失っても、寿命に関係なく延々と生きるということになっている。
これは、いかに男性というのが生物的に弱いかという見方もできるだろうが、年をとった男性が一人で生きていくのはたいへんだということでもある。“粗大ゴミ”だとまではいわないにしても、男性が妻を亡くして、なお生きていくというのは、心労が多い。夫婦はやはり、ワンセットでいるほうが、統計的に長く生きられるだけでなく、そのほうが、社会的にもリーズナブルなようである。手前勝手ないい方をすれば、妻を看取るのではなく、夫が妻に看取られるほうがいいようである。》

問はれれば不便と答ふ秋の暮(山本裕)

*あたしゃ、この句はすげぇー句だと思います。

地球(today’s posting)

I went to a small local post office this afternoon to send a registered mail to Son. Then I walked to a modest community Library. On the way to the library, spotted
white plum flowers in their full blooming. It's getting warmer here.

もう少し温かくなるのかと期待していましたが、でもずいぶん助かります。とにかく死ぬまでの一日を無事に過ごせました。感謝します。
図書館で色々な方の死に際を紹介している本を捲りましたが、吉田健一氏はやはり豪快ですね!江國滋氏の云う器用な死というのがよくわかりませんが“苦しみの緩和された死”という意味のようである。あたしの望みも先ずはその点にあります。よろしくお願いいたします。

点滴もモルヒネとなり夕桜(結城節子)