(巻三十五)判決の軽きを怒る残暑かな(竹内柳影)

(巻三十五)判決の軽きを怒る残暑かな(竹内柳影)

1月5日木曜日

それほど厳しい寒さではない。そんな朝です。朝晩30分ずつエアコンをつけていますが、血圧測定のために暖房つけるという実に情けない理由なのです。寝起きに寒い自室で測ると160くらいまで上がるが暖かい部屋で体を慣らしてからなら135まで下がります。それで暖かい部屋にして測って記録していますが、普段の生活は暖房のない自室です。

朝家事は洗濯でした。やや風が強く、水気がキレたら取り込むことにしました。

昼飯は安倍川餅になりました。雑煮でも同じですが餅は喉に詰まらせないように気をつけなくてはと、命を惜しむようなことを頭に浮かべ、食しました。

餅に海苔餅に黄な粉や命惜し(越高飛騨男)

昼飯食ったあと、一息入れて散歩に出ました。青空ですが北風が強い。ヘッドホンが耳袋の役目も果たしてくれて一石二鳥を目論んでいるのですが、英語学習の鳥はなかなか落とせません。先ず図書館で返却と貸出、そこから稲荷のコンちゃんへ。コンちゃんの背中を撫でました。怒ったり嫌がったりはなし!一袋。そこから都住のクロちゃんのところへ。風が強いので段ボールのシェルターに入っていました。生協に寄って猫のスナックと私の菓子パンを買って帰宅。

願い事-涅槃寂滅です。

そういうことで、昼飯に餅をいただき、喉に詰まらせることなく無事に食べ終えました。餅ではないが、喉に食べ物を詰まらせて亡くなられた方に久保田万太郎氏がいたことを思い出しました。万太郎氏の事故死にサラッと触れた随筆に

「即吟の名手 - 安住敦」文春文庫 巻頭随筆2 から

があり読み返してみました。

時間はかからないが即死ではないから苦しそうな逝き方です。理想的な死に方からは外れるますが、最悪でもないように思います。

しぐるるや駅に西口東口(安住敦)

「即吟の名手 - 安住敦」文春文庫 巻頭随筆2 から

久保田万太郎は生前、俳句は自分にとって余技にすぎない、の一本槍で押し通してしまった。だが、そのいわゆる余技俳句は、この作家の遺した小説や戯曲に比べて、よりすぐれていたとはあえていうまい、少なくともその下位に立つものではなかった。ことに即吟の名手だった。

その突然の死のひと月ばかり前、その主宰する「春燈」の大会があった。句会がすんだあと、余興だとあって座の一人が声色[こわいろ]をやった。東京生まれの、かつて先代吉右衛門の番頭をやったことのある俳人である。その声色がすんだ拍子に、かたわらにあった短冊に、

声色をつかつてさへもおぼろかな

と書くと、はい御褒美です、といって与えた。声色のあともう一人が米山甚句を唄った。新潟の出身で、何人かの徒弟をかかえて製本屋をやっている俳人である。その唄が終わったか終わらないうちに、こんどは、

親方の夢にきてなく千鳥かな

と書いて与えた。それはまさに早技だった。

その死の数時間前は中村汀女の「風花」の大会に招かれて出席していた。たまたま隣席に五所平之助がいて、最近その妻女が伊豆長岡に近代風な茶店をはじめたと語った。その話をきくとすぐ、卓上の短冊に、

長岡のモダン茶店の五月かな

としたためた。絶筆となったものである。

こうして咳唾[がいだ]珠[たま]をなすように句をつくったが、しかし決してつくりっぱなしではなかった。あとでその句を仔細に吟味し、捨てるべきは捨て、手を入れるべきは手を入れた。ときには人に吹聴してその反応をみた。この作家の丹念な推敲ぶりは遺品の句帖を見てもわかるし、またのちに句集を編むときの改作のあとをみてもわかる 例えば、

淋しさはつみ木あそびにつもる雪

という句は、処女句集『道芝』にのっている。関東大震災で浅草の家を焼かれたあと、日暮里渡辺町に、親子三人水入らずではじめて所帯をもった、その翌年の作である。ところでこの句、その後昭和十年、『久保田万太郎句集』を出すとき、

淋しさはつみ木のあそびつもる雪

と直っている。そしてさらにその後、昭和二十七年に『草の丈』を出すとき、

さびしさは木をつむあそびつもる雪

と改められている。漢字の「淋し」が仮名に書きかえられているのは、そのときの好みに従ったものとしても、三十年かかって「つみ木あそび」が「つみ木のあそび」と直り、さらに「木をつむあそび」と改まっているのである。うっかり読んでいるとどこが直っているのか気がつかないほど、微細なところに作者の神経が行きとどいているのにおどろく。もう一例、

ゆく年やむざと剥[む]きたる烏賊[いか]の皮

という句は終戦の翌年銀座の某店でつくったものだが、この句、その翌年の昭和二十二年、『春燈抄』に収めるとき、

ゆく年やむざとし剥ける烏賊の皮

> と直された。だが、さらに五年たって昭和二十七年『冬の三日月』を出すとき、もう一度、前の、

ゆく年やむざと剥きたる烏賊の皮

に戻されている。だが、それですんだのではない。最後に昭和三十三年『流寓抄』を出すとき、こんどは、

ゆく年やむざと剥[は]ぎたる烏賊の皮

と改められた。「剥[む]く」を「剥[は]ぐ」とすることによってやっと納得がいったのであろう。 

昭和三十年の夏、この作家は戦後十年の鎌倉住まいを捨てて東京にもどってきた。そこは湯島天神町、震災にも戦災にもあわないで焼け残った一劃である。その家のすぐ横手、湯島天神男坂の下に通称亀の子寺と呼ぶ寺があった。寺といっても一宇の堂祠にすぎない。その堂の前に小池があり、亀の子がいた。

湯島に移ってきて間もなく、ある日この寺で畳替えをしているのをこの作家は見た。即座に「亀の子寺の畳替え」という句ができた。

しかし、さてその上[かみ]五に据えるべき言葉にこの作家は窮した。何を据えたらいいだろうとよくそのことをわたくしに言った。やがて秋になってわたくしは、「秋風や」、はどうでしょうと言い、歳末になって「行く年や」はどうでしょうと言ったが、もとよりそんなありきたりの季語で気に入るはずはなかった。その年が明けてしばらくたってからこの句、

きさらぎや亀の子寺の畳替

として「春燈」にのせられた。上五に置く季語をさがすのに半歳以上かかったわけである。

興のおもむくままにあとからあとと面白いように句は作ったが、その句の仕上げには彫心鏤骨[ちようしんるこつ]した作家である。ただ、その痕跡を見せなかった。俳句は余技だなどと言うのはこの作家のポーズに過ぎなかった。

ところで前にあげた声色の句にも親方の句にもまた長岡の句にも推敲の筆は加えられていない。言うまでもなく、その暇もなくある日突然死んでしまったのである。