(巻三十六)角とれてなどと褒められ敬老日(佐藤益子)

(巻三十六)角とれてなどと褒められ敬老日(佐藤益子)

2月27日月曜日

まずまずの好天で微風だ。近所の欅の剪定作業があり、高所作業車のゴンドラに庭師さんが乗ってビルの5、6階の高さの枝を打っている。作業の日和としてはよい方だろう。(お昼に半分終ったところを一撮)

朝家事はなし。細君の買い残しの米と自分の朝食用品を買いに出かけた。モンキーバナナの五本房を見つけ出して満足。往復でトイちゃんにスナックをあげた。往きは呼び出したが復路は待ち構えていた。学習するなあ!敗けられない。

昼飯喰って、一息入れて、散歩。

クロちゃんに会いに行くが不在。サンちゃんにずいぶん会っていないが生きているのだろうか?フジちゃんはいたが近寄って来ず。そこから稲荷のコンちゃんを訪れ一袋あげた。

曳舟川を上っていくと「ときわの高橋さん」とバッタリ。長男さんがご結婚されたそうで極寒の北海道星のリゾートでの挙式の話をベンチでうかがう。

そこから「さと村」に行き、タンとレバを塩で各2本でホッピーをあおった。やはりここの肉が一番デカイ。

帰宅して、高橋さんから頼まれた市川さんの連絡先を林さんに顔本で問い合わせた。

願い事-涅槃寂滅、酔生夢死です。

今週は

BBC CrowdScience, “Where does our fat go when we exercise?”

https://www.bbc.co.uk/programmes/w3ct3j88

という番組を聴いてみることにした。

その22分20秒辺りから28分辺りまで、

Professor Herman Pontzer, Evolutionary Anthropology, Duke University

という先生が、タンザニアのHadzaという狩猟採取族のサンプルを糸口に運動量と代謝のことを研究し、結論としては運動だけで体重を減らすことはできないと結論している。運動はもちろん健康によいが、それでは体重は減らないので食う方を我慢しろということのようだ。

再読は庭師さんお仕事を見たので

「庭のことば - 近藤正雄」文春文庫 01年版ベスト・エッセイ集 から

を読み返してみた。

おほまかな剪定にして狂ひなし(高橋将夫)

「庭のことば - 近藤正雄」文春文庫 01年版ベスト・エッセイ集 から

密告や寝返りなどと同じく日常「裏切り」ということはたいへんよろしくない行為ということになっている。けれども庭づくりにたずさわる私どもには、耳なれたことばであり、庭木の手入れにはもっとも大切なことばでさえある。

樹木の生育のいちばんはげしい夏はまた、私たちのいちばん忙しいときでもあって、この期をのがすと、すかしに適した時は、また一年めぐってこない。いきおい私どもは炎天下にも身をやすめるわけにはいかないのである。すかしをする樹木のなかでも、楠・樫・みずもち・泰山木などは、生長がはやいので太い枝をおもいきって切り落とす枝ぬきをする。葉のいっぱい繁った太い枝は、このころ水を精いっぱい吸いあげているからかなり重い。その枝を切り落とすために枝の表(上側)に鋸をいれる。すると枝は自分の重みによって、鋸がその半分ほども切りさげないうちに裂けてしまう。下手をすると、裂けは幹にまでおよぶことがある。これでは何年も丹精こめた庭木を整姿するどころか、かえっていためて醜くしてしまう。繊維のつよい樹などは、ことにその心配がある。

枝ぬきのさい、このように枝や幹が裂けることをあらかじめふせぐために、私どもはつねに「裏切り」をするのである。裏切りとは、切り落とそうとする個処の裏側にあらかじめ切りこみをいれておくことである。しかし切られる枝にとって事態は反対であろう。その切りこみさえなければ、枝はそうやすやす落ちはしない。まま、半分切られて垂れさがるようなことになっても、樹皮のすじがつながっているかぎり、その枝のいのちに望みはある。それを思えば、「裏切り」はたしかな重みをもっている。

「裏切り」によってなんともあっさり、太い枝が落ちていくさまをみていると、この言葉が人の背叛行為を意味するようになったことがいかにもよくわかるのである。

-捨石

ふつうすてられたものや犠牲にされたものを「捨石」といっている。それは庭づくりにもよくつかわれることばである。だがその意味あいははなはだ異なり、もっと深く、輝きのある内容をもっている。

木蔭にはいれば、どこからともなく風がわたって汗をすっとひいてくれる秋口になると、本格的な庭づくりがはじまる。樹木のほとんどが、真夏や冬の移植には適さないからである。庭の地がしあがると樹木と石は、その大きさと入れるところにより、順に配してゆくが、なかでも石のくばりには気をつかう。

庭につかう石にもいろいろあって、大きく二つにわけられる。ひとつは「役石」であり、ほかは「捨石」である。役石とは、なにかの役目あるいは意味をもたされている石のことである。よく知られているものに蹲踞[つくばい]をかたどる三つの石や飛石がある。また三尊石、陰陽石などをあげることができる。役石のうちでも蹲踞の石や飛石は、茶庭のなかでさかんにつかわれている。しかしほかの役石は、庭が宗教的な色あいをなくしてかたため、社寺のもの以外多くはみらるない。それはあまりに技巧的な石組みがこのまれまれなくなってきていることともあいまっている。庭はあくまで自然の一部であり、樹・石・草・苔などが共生できる空間でなくてはならない。石によって、それがやぶられてしまっては、庭は人をつつみこむやすらぎをかもしださない。

そんなとき、役目なく、ひとつの約束ごとにしばられることもない石が、樹木や下草のかげからもの静かに顔をのぞかせていると、それはいいようもなく光彩をはなってくる。これが、「捨石」である。

さて、庭師仲間もよくつかう京のことばに「ほかす」というのがある。やはりすてるという意味につかわれている。けれども、そのひびきはいかにもやわらかく、すてかたがちがうかのような感じさえうける。いわば「捨石」とはいかにもほかしてあるかのように、何気なくすえられている石ということであって、不要なもの、余計なものを投げ捨てておくことを意味しはしない。

いまや「捨石」は、庭の主役にうかびあがっている。それというのも、かつては信仰にからみ奇石や珍石を自慢にしたものであるが、現代ではむしろ庭全体の造型や装飾として石をとらえみるようになっているからである。つまり配石の焦点は「捨石」にあつまってきている。だから庭づくりにさいし、庭師のだれしもがいちばんに吟味し、苦心してすえるのは「捨石」にほかならない。どこにめ転がっているような石にも、かならず味があるものである。その味をみつけてひきだし、いかに芸をさせることができるかは、庭師の腕にかかっている。

その腕ひとつをたよりに力仕事にあけくれ、一服のあとすえたばかりの石のたたずまいをみていると、庭職人は「捨石」にほかならなかったように思えるのである。眼のあさい人にはとどくすべもないが、庭あるところかならずわれら仕事仲間のさえた技が光をはなっているものなのである。

-垣間見る

木枯らしであれ、とっさの風に道ゆくひとの裳裾[もすそ]がさっとひるがえるとき、おもわず今まで気づかなかったその美しさをつよく感じることがある。

それはあたかも腕のいい職人がつくった庭をめぐるときと同じようである。それほどの作庭ができる庭師には、一本の絹糸のような美感覚がぴんと張られているように思われる。その糸をたぐってゆくと、根底となる感覚にめぐりあえるゆうである。その感覚とは、物があるがままあらわにみえてはならないということであり、逆にほとんどみえないようであってもまたいけないということである。いいかえるなら、そこにある物の、背後ないしはその奥に、ちらっとあるかなしかの気配を感じとらせることが大切なこととされるのである。

それは、日本建築における格子や障子、御簾[みす]の意匠にもはっきりあらわれている。たとえば格子戸をあけしめする際、光と影がからからと交叉して流れるように動いてゆくのは、いかにも趣きがある。また朝日がのぼり、障子に樹の小枝がうつって、ましてその中を小鳥のとびかう姿をみつけたりしたときなど、戸外でみたとき以上に印象深いものである。

そのような感覚が、とくに作庭や庭木の手入れの技術の伏本流として存在しているように思われる。なかでも垣は、その典型であろう。古くから透垣[すいがき]という垣がしられており、光悦垣やたいまつ垣のように、すすんで意匠化されたものはいうまでもない。さらに天然の材質をそのままいかした柴垣、竹穂垣はいかに厚くかさねようと、陽はもれてくるし、人や物の気配はすぐ感じさせてくれる。このように垣をはじめとして、さきのような感覚は庭の随所にとりこまれているものなのである。

ともかく、私は長年この道ひと筋に生きてきた庭職人の話をできるだけ聞くことにしている。先達であるというばかりではない。その人たちこそ、もはや接することのできない古人たちの美感覚がふんだんに育まれ生きながらえていると思われるからである。彼等の話を聞いていると、いつかしら遠い日本人の美感覚を「垣間見る」思いがするのである。

-根まわし

根まわしということばが政界や財界の常套語になったのはいつごろのことであろうか。あの世界で根まわしのしていない会議がひらかれたなら、それは踊るはかりか蜂の巣をつついたようなさわぎになるにちがいない。

春になると木の肌といわず枝といわず、いそいそとしてくる。暖かい陽ざしの刺激が芽から枝、枝から幹へと伝わり、根の働きが活発になるからであろう。いよいよ根まわしの季節のはじまりである。

庭づくりにさいし多くの人は樹の姿を主にしがちである。しかし、樹の将来を考えるならば樹姿をみて根をみないのはいかにも不手際と言わざるをえない。結果は二、三年をまたなくてもあらわれてしまう。根がしっかりしていない木はみるみる悪くなるからである。いきおい私どもは気を求めるとき、根の具合を第一とすることになる。

ところで庭をつくるということは、木の移植にはじまる。それにはまず当の樹木に前もって移動することの了解を得なければならない。樹木からその了解を得ておくことが根まわしである。それがあってこそ樹木は移植にたえることができる。

さて根まわしであるが、それは樹木の根の活動がはげしくなる五、六月頃が最適とされる。まず庭木として不要な枝をはらい樹姿を整える。つぎにその木立に見合った根株の規模をきめるのである。きまれば幹を中心に円型に掘り下げてゆく。その途中出合う細根はすべて切ってしまう。樹の高さの比にみあった深さまで掘り下げたなら、次に根株の真下を調べるため底の土をさらえていまう。根のあつかいは前と同じことである。

ここまで作業が進むと、根株の姿はちょうど人工衛星のカプセルのような形をして、宙に浮いた格好になる。

切らずに残された太根がアンテナのような態なのである。

また根まわしのしめくくりは、すべての太根の皮を五寸幅ほどにはいでしまうことである。それによって太根の先端から徐々にその働きを弱めさせ、かわりにその手前から沢山の細根を生えさせることができる。

皮はぎがすめば、土はもとどおり埋め戻しておく。その土が石やガラまじりであったり、質の悪いものであれば、その土はすべて入れかえてしまう。

一年後、移植の段になり、再び同じところを掘りかえしたとき、根株に細根と髭根がふえ、その密度が高くなっていれば、根まわしは成功したのである。

つまりこの樹は移植可能な状態にはいっていて、移植されることを了解したといえる。残してあった太根を切りはなし根株の土が崩れないように縄で固く鉢巻きすれば、この作業はすべて完了する。移植された樹は、一夏を無事越すことができれば、まず大丈夫である。

「根まわし」は、けっして一事を成就させるためにめぐらす謀りごとではなく、私どもにとり樹木を新しい環境にとけこませ、かつ育てあげたい一心のきわめわざにほかならないのである。

-陸(ろく)

時雨がきつくて仕事にならない日ほど、柄にもなくかたい書物に目を通したりすることがある。

庭づくり指南書のなかでも、すぐれた古典といわれる『作庭記』をひもといてゆくと、随所に強調されているひとつのことに気がつく。それは、庭づくりに際して、その作意を決して感じさせてはならないということである。のちの時代、禅寺に多くつくられた石庭にしたところで、その中につかわれている素材はすべて自然そのままのものである。

長きにわたる作庭の作法をもののみごとに崩したのは、茶人としてむしろよく知られる古田織部であろう。

燈籠にみる織部の造型は、かつての庭には考えられなかった感覚であったにちがいない。いつごろであったか、ある先達に案内されてはじめてこの燈籠と対面したことがある。その時のことは今もって忘れられない。その織部燈籠は太閤石ならではの味わいをもち、私の胸に迫ってきたものである。

すでに古い織部は、ほとんど手にすることはできない。人気はさらのことであろう。うつし専門の石工の話では、今様織部の注文になかなか応じられないということである。

さて、ある書物(田中正大著『日本庭園』)に「織部聞書」というものがあって、それには「ロクナル石」などとさかんに「ロク」ということばがでてくる。

これを知ったことが、織部について第二の驚きであった。なぜなら、この「ロク」ということばは、私どもが石をすえるときによくつかっているからにほかならない。その時の「ロク」とは、前後にも左右にも水平という意味に相当している。弟子入りしたてのころ「その石の天端[てんぱ]をロクにしてんか」といわれて何のことか皆目わからなかったものである。

いらい天端のそろった平坦な石をすえる時には、いつも織部の生きたはげしい時代を身近に感じてうれしくなってしまう。

まして、そのことばが、食糧難のころにいわれた「ごくつぶし」などとならぶ「ろくでなし」と深いかかわりがあると思えば、肩に喰いこむ石の重さも忘れ、愛着さえわいてくる。

日和見

昨年は和泉の仕事にほとんどかかりきりであったから、京・大阪間を頻繁に車で通った。その都度、かの洞ヶ峠を登り下りしたものである。

この峠を京にむかって登りつめると急に視界がひらけ、かつての順慶にかぎらず、つい足をとめて一息いれたくなってしまう。

ここからは、ちょうど煎茶点前の山字屏のような山にいだかれた京の街が一望できる。

それをなす山の左が愛宕、右が比叡である。いずれも古くから京都鎮護の山として信仰あついものがある。

私どもにとってこの山は、信仰のみにとどまらない、まして単なる借景としての山であるのでもない。

それは庭仕事には切っても切れない天気と密接な関係を持っているということである。

庭仕事にたずさわる者が、朝起きて、まず心配することは天気のほかにない。いうなれば身体がまだ床の中にある時からもうそのことを気にしているものである。

その天気であるが、長年京に住いする庭師ならば、愛宕と比叡の二つの山の様子をながめ合せたなら、ちちどころにその日の天気をあててしまう。

それは愛宕と比叡に向かって雲がどんどん流れ、つまってゆくゆうな空模様ならば、かならずや雨や雪となる。逆に今さかんに降っていても、この山の上から西南に雲が出てゆくようならは天気は快方に向かう。また雨足からみれば、愛宕にむかう雲による雨は長くきつい。それにくらべ比叡のものは短く軽いということになる。

ところがである、さしたる建造物がなかった以前はともかく、都市の様相ががらりと変ってきた今日、愛宕山比叡山をみようにもビルをはじめとする高層建築にさえぎられて、しだいにみられなくなってしまった。これは仕事柄、実に不便きわまりないことである。いつであれ軒先に出れば、日和見が十分にできたものなのである。

私どもにとって現場に出る前に、その日の空模様を確実にとらえておくことは、肝腎この上ないことである。重量物をあつかったり、高所へ登ったりすることであるから、天気によって一日の仕事の内容がぐんとかわってくる。

庭仕事にたずさわる人が空をみあげながら、軒先から出たりはいったりしているのをみかけたことがないだろうか。「日和見」も、まずは会得すべき庭づくりの技法の一つといわれるゆえんである。

-こけの一念

さる人の作庭集をまとめる話があって、若い写真家と庭の撮影にまわったのは、ちょうど暴れ梅雨のさなかであった。

私など素人には、パッと晴れあがった日の撮影がよいと思うのだが、それは全くちがって薄ぐもりが最高のコンディションだときかされた。その上雨あがりであったなら、いうことなしであろう。どんなにうち水しようとも、梅雨のあの間断なく、まんべんにふりかかる自然の撒水にはかなわない。それに雨と水道では、水に含まれた養分というものがかなりことなるだろう。雨あがりの庭苔の精気はことさらである。

苔といえば、杉苔や曼珠苔ばかりを思いおこすけれど、庭石や石造品にえんえんと生きている苔があって、意味は重い。庭石や燈籠をはじめとする石造品は、形ばかりでなく、千辺万化ともいえる色によって、みごたえするものである。その色の変化は、錆苔と総称される苔たちによってかもし出されている。

だから、庭に組まれた茶褐色の丹波の山石が、七、八年から十年のあいだに黒緑色にかわってしまう。それは、錆苔の生活によるのである。はじめてこの石を眼にした人は、このようにはじめから深みのある石であったろうと疑いをもたない。

錆苔は、徐々にではあるが、石の裂け目、窪みの部分から、ふえてゆく。樹木の蔭なら、行程は早くなる。この錆苔が石面をすべて覆い、石のよそおいをかえてしまうと、今度は別種の柄の大きい苔があとを追い始める。竜安寺の石庭の山石にその例をみることができる。

たとえば、十五石のうち人名が彫りこまれた石は、そのような道をへて苔むしたものであろう。長年月にわたって、苔族の洗礼をうけてきたのである。石裏にある二名の刻名のうち、小太郎は衆目の一致するところであるが、他の□二郎の第一字は、どうも定まらない。清・彦・徳など様々な読み方をされているようである。

それは長い間に、風化作用によって字の彫りが浅くなり、読みにくくしていることもあるだろうが、私がまぢかにみた限りでは、錆苔をはじめとした苔の繁茂が、判読しにくくしているように思われる。

数百年にわたるこの石の苔の生涯にくらべれば、刻名ごときをあれこれ詮索していることがばかばかしくなってしまうのは私ばかりではないだろう。

にもかかわらず、龍安寺辺に行くことはよくあるから、そのことをいつとはなしに思いだしているから、妙なものである。

この石にかぎらず、数ある古い石造品にも年代などを刻んだものがよくあり、同じようになかなか判読できないものである。

つまるところ、「こけの一念」ということを思いおこすとき、時流がそうさせるとはいえ、日頃の私たちの気短で、性急な仕事ぶりに冷汗をかかされるおもいがする。ただものいわぬ行の強さであろう。