「庭の生き物たち - 和田貞男」93年度新鋭随筆家傑作撰から

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「庭の生き物たち - 和田貞男」93年度新鋭随筆家傑作撰から

私が現在の場所に移り住んだのは、約三十年前のことである。
東京郊外の私鉄の駅から、歩いて十五分ほどの新興住宅地の中にある。駅付近を過ぎると、我が家までの中間は畑地が主で、民家はまばらにある程度だった。今も大差はないが、マンションなどが増えてきたし、道路の幅も広くなり、舗装されて車の通行量は日増しに増えている。
家の土地は、もとは農地だったもので、初めて下見をしたころは、枯れ草の間に、黒々とした土が見えていて、自然のぬくもりを残していた。
十坪ではあるが、待望の家が建ち、休みの日には、自分の手で生け垣を作ったりもした。後に、ブロック塀にしたが、芝を買ってきて植えたり、植木も増やしていった。
木々も根づいてきて、やっと我が家という実感がわいてきたころ、庭に集まる生き物たちにも目がいくようになった。
ウグイスやシジュウカラ、名も知れぬきれいな小鳥たち。
梅やツバキやサザンカが、その季節の花をつけ、わずかな置き石のある庭に、枝から枝へ、辺りの様子をうかがいながら下りてくる。警戒しながらも、しばらくいい声を聞かせてさっていく。
チョウの仲間もやって来る。アゲハやシジミチョウらしいのも、庭を舞う。家族でガラス越しに、息をころして、しばしば見入った。
ところで、昔から私の嫌いな生き物に、ヘビ、カマキリ、ハチなどがある。
それが、よりによって我が家の庭に、カナヘビと、カマキリが、ご丁寧にも住みついたのである。
暖かくなった庭の芝生のあちこちに、茶褐色をしたしっぽの長いやついるではないか。知識のない私には、トカゲとの区別はつかなかったが、いずれにしても気味が悪い。しかし、子ども達が手に持って遊びながら「カナヘビ」と言っているのを聞いてから、それと知った。
カナヘビよりもずっと後の発見であるが、カマキリが植え込みの中にいたのである。
大きな腹をした胴体は、今にも何かを飲み込んでしまいそうだし、あのちぎれそうな細い首についている三角の頭、相手を見据える二つの目は、どう見ても気持ちが悪い。そして、何よりもあの大きな鎌形の前脚。あれは見ただけで、今にもかっ切られてしまいそうだ。

事実、指などを近くに出そうものなら、鎌を持ち上げて攻撃姿勢をとるから怖い。獲物を待って、じっと動かずにいる姿は、いかにも、どうもうで陰気な雰囲気を持っている。
少し伸びすぎた芝生の中を、跳ねるように走りまわるカナヘビを観察していると、子ども達がおもちゃにして遊ぶ気持ちが理解できてきた。鼻先に指を出しても攻撃的な様子は少しもない。小さな目をくりくりさせ、喉をぷくぷくさせながら、まわりの様子をうかがい、立ち止まりながら移動していくのである。
その翌年だったか、直径五、六ミリの小さな白い卵のようなものが、草の根もとや浅い土の中にあるのを見つけた。何かの木の実でもなさそうだった。予想したとおり、果たして小さなカナヘビが何匹も生まれて、はいまわっているのを見ることができた。
カマキリを発見した後のある年の冬、庭の植え込みの中に、茶色がかった卵のうを見つけ、そして翌年、かなり暖かくなってから、確かに子カマキリが孵化して、たくさんいるのを見つけた。
今年も、その子孫であろう小さな緑色の子カマキリが、何度か家の中まで入り込んで、ソファーやカーテンに止まっていたので、つぶさぬようにそっと指にとめて出してやった。
親から卵が、卵から子が生まれる一連のサイクルを何年か見てくると、この生き物たちに、一種のいとおしさのような感情さえわいてくる。気味悪いなどという思いは消えて、その姿を見つけると、親であれば卵が産めるだろうかと心配し、子であれば無事に大きくなれよと願う。そんなことを心の中でつぶやいている自分に気がついた。
しかし、この夏まで現役で姿を見せていたカマキリは今、冬を迎えて卵のうは一つも見つけることができない。カナヘビに至っては、気がついてみると、もう何年も前から全然見かけることもなくなっていたのである。
退職して、庭のそうじが行き届いたため、虫たちの居場所がなくなってしまったのであろうか。この現象が、単に我が庭の環境変化だけの理由によるものであればよいが......。
美しい小鳥が影をひそめ、大きなカラスが住宅街を超低空で舞い騒ぐだけの街になってほしくない。小さな虫たちの盛衰をみていると、そんなことが胸を過ぎった。