「迷走生活の方法 - 福岡伸一」 迷走生活の方法 から

 

「迷走生活の方法 - 福岡伸一」 迷走生活の方法 から

元号が晴れて「令和」と決まったので、ここは心機一転、清々しく過ごしたい。
そこで福岡ハカセからは「迷走」生活のススメを提言したい。迷走とは言っても、目標を見失って右往左往する「迷走」ではなく、迷走神経の働きを大事にするという意味での迷走生活である。
重大な職責を遂行中、非業の死を遂げる人物がいる。たとえば、アップルの創始者スティーブ・ジョブス、あるいは東電福島第一原子力発電所の事故当時の所長・吉田昌郎、最近では、前沖縄県知事翁長雄志。いずれも働き盛りのさなか、がんに侵されて惜しまれつつ亡くなった。
彼らが置かれた状況はそれぞれ異なるとはいえ、共通する背景がひとつある。それは極度のストレスにさらされつつ、そこから逃げることが決して許されなかったということだ。
生命の危機に直面すると-急に敵に襲われそうになったり、環境が激変したりすると-瞬時の対応を迫られる。戦うというオプションもありうるが、自然界の敵や脅威は強大なので、十中八九、逃げるが勝ち。
すぐに逃げられるよう警戒レベルが急上昇する。すなわち、筋肉が緊張し、心拍数が上がり、血圧が高まる。酸素をたくさん取り入れるため、呼吸が早く、浅くなる。
これらをひとくくりにすると、筋肉、心臓、血管網、肺などを支配している交感神経系が活性化される、ということができる。同時に、副腎皮質からはコルチゾールが分泌される。コルチゾールステロイドホルモンの一種。いわゆるストレスホルモンと呼ばれる物質だ。コルチゾールの役割もまた身体の態勢を危機に対処できるように整える。その主要な作用は、免疫システムに対して、これを抑制するゆうに働きかけること。
生命の緊急時、ストレスホルモンは免疫システムが使っていたエネルギーや栄養を、ストレスと戦うための他の緊急システム(心臓、筋肉、呼吸、知覚など)に振り向けるよいなスイッチとなる。つまりストレスホルモンは免疫抑制剤なのである。免疫システムは身体全体の防衛網。国家にとって防衛費が膨大なものになるように、平時、免疫システムには、かなり多くの生命リソース(つまり酸素や栄養)がその維持管理のために振り向けられている。
しつこい皮膚のかゆみやアレルギーにしばしばステロイド軟膏が使われる。これは、かゆみやアレルギー反応を引き起こす過激な免疫反応を抑制するためである。交感神経系の活性化も同時に、免疫システムを抑制する方向に働く。
さて、問題はこのあとだ。ストレス応答は本来、一過性の防御反応である。敵からなんとか逃げおおせるか、危険な状況から脱することができれば、ストレスホルモンのレベルは下がり、交感神経系の活性化もおさまり、身体はもとに戻る。生命リソースは再び免疫システムに振り向けられ、防御網は再活性化される。これが進化の長い歴史で生命が経験してきたストレスとの付き合い方だ。あくまでストレスは一時的なものだった。
ところが、現代人はさまざまな社会的・人間的なストレス環境に置かれる。しかもこれは一過性とはいかない。むしろ恒常的だ。逃げられない。ゆえに、慢性的なストレス反応が、免疫システムをたえずいためつけてしまう。免疫システムの抑制は、がんに対する警戒網を弱める。かくしてストレスとがんは結びつく。
ゆえに、がんになりたくなければ、できるだけストレスホルモンの上昇を避け、交感神経系を刺激しないようにするのがよい。それがハカセの推奨する迷走生活である。

交感神経系がアクセルなら、ブレーキにあたるものが身体にはちゃんと備わっている。それが迷走神経に代表される副交感神経系だ。
生物学用語の中に、字面や響きが独特の言葉がある。福岡ハカセが気に入っている言葉は「迷走神経」と「官能基」である。まずは迷走神経。神経がそんなに迷いながら走り回って大丈夫なのかと思えるが、大丈夫なのである。
迷走神経は身体の中心を貫いているにもかかわらず、ふだん私たちはその存在を意識することはほとんどない。迷走神経の神経線維は、脳の奥底にある延髄から出発し、首をおりて枝分かれしてほとんどすべての内蔵にまで達している。あまりにもいろいろな部位へくねくねと分布しているがゆえに、この「迷走」の名がある。 
英語では、vagus nerve。vagusはラテン語で彷徨・放浪を意味する。明治期に一生懸命、西洋医学を輸入した先人たちが「迷走」という日本語に置き換えてくれたのだ。このセンスは悪くなく、けだし名訳である。
ちなみにほとんどの学術用語が日本語に翻訳されているがゆえに、福岡ハカセを含む日本の少年・少女たちは学校や読書で、かなり早くから専門用語に親しむことができる。ただ、多感な時期に「官能基」なんて言葉に出会うと、いったいそのはてにどんなめくるめく世界があるのか、気になってしょうがなくなった。が、これは単に、functional groupを訳した化学用語だった。つまり特定の機能をもった化学構造上のグループということ。ちょっと気取って意訳しすぎ。
こんなふうに、日本語化された専門用語の原語がわかるようになるのは英語で教科書を勉強したり、論文を読んだりするようになってからなのだが、それはそれでわりと深刻な問題に直面することになる。
海外の人たちと会話するとき、えっとそれ英語でなんだっけ、という局面がしばしば出てくるのである。特にちょっとした基礎用語が出てこない。支点・力点・作用点とか台形とか平行四辺形とか。日本では教養人のつもりでも、海外では小学生レベルの知識もおぼつかないように見られてしまう。
ハカセも何度も、そしていまだに体験することだが、かなり冷や汗ものである。スマホの辞書が助けてくれるが、少なくとも高校以上の教科書の学術用語には和英を併記しておくべきだと思う。
さて、話はもどって迷走神経。これは自律神経の一部。自律神経は、自分の意思とは無関係に、無意識下で私たちの身体をコントロールしてくれている大切な情報網。寝ているときでも呼吸や心臓が止まらないのは自律神経のおかげである。
自律神経は、さらに交感神経と副交感神経に二分される。よく自律神経失調症という言葉を耳にする。主な症状は不定愁訴(これまた見事な日本語)。なんとなく憂いがある。特定の臓器が悪いわけでもないのに、急にドキドキしたり、不安になったり、冷や汗が出たり、だるかったり、便秘になったり………誰でも一度や二度は経験があるだろう。
それは自律神経のアクセル役とブレーキ役、すなわち交感神経と副交感神経のバランスが乱れていることに起因する。多くの場合、交感神経の方が活性化しすぎていることによる。
ストレスがかかると交感神経が活性化され戦闘態勢になる。緊張と血圧上昇。逆に、副交感神経が優位になると心臓と呼吸が安静化し、胃や腸の動きがスムーズになる。迷走神経は後者。すなわち副交感神経の主要な担い手として身体をリラックスさせる方向に導く。
なので「迷走」生活とは、副交感神経優位を心がける生活。思い惑うのではなく、なるべくストレスの種から遠ざかること、あるいはすぐに忘れること。すべては流れゆくので、流れに抗せず流れにまかせること。
明日の愁いは明日考えるとして、今日はお酒でも飲んでぐっすり寝ましょう。寝ているあいだに迷走神経が身体を整えてくれます。