(巻三十六)水の裏見ているごとし冬の空(川嶋一美)

(巻三十六)水の裏見ているごとし冬の空(川嶋一美)

3月5日日曜日

曇天。朝家事は特になし。買い物もなし。

「迷走生活の方法 - 福岡伸一」 迷走生活の方法 から

を読み終えた。本論もフムフムと拝読いたしたが、学術用語の翻訳の話にフムフムである。早速「台形」を調べたら、米trapezoid,英trapeziumだと出てきた。発音もできない。50歳近くになってから全く知識のない化学関係の部門に配置されひどい目にあったが、あのとき官能基をfunction groupだと知っていればもう少し理解が進んでいたかもしれない。

俳壇を届けてくれたが、書き留めた句はなし。

朝寝とは淋しき自由夫退職(信里由美子)

という句があった。「旦那も先が大変ですねえ」。と、思う。

昼飯喰って、一息入れて、散歩に出かけた。今日も呑む気が起こらず、図書館と猫詣で帰宅。都住1でトモちゃん、都住3でクロちゃんにスナックをあげる。生協で缶酎ハイ1本とピーナッツを買って帰宅。ポケット瓶を買うと毎晩飲んでしまうのでやめた。借りてきた中に『お坊さんだって悩んでる-玄侑宗久』がある。捲ってみたが超俗でビックリした。捲っただけでおしまい。

願い事-涅槃寂滅、酔生夢死です。

写真は一昨日撮った蓮光寺掲示板(門前と境内)。何も確かなものはないのだ。そこで「死の欲動」となる。で、

死の欲動 - 春日武彦」私家版精神医学事典 から

を読み返した。

春愁昨日死にたく今日生きたく(加藤三七子

死の欲動 - 春日武彦」私家版精神医学事典 から

ドイツ語でTodestrieb、死の本能と訳されることもある。フロイト1920年の論文「快楽原則の彼岸」ではじめて用いた言葉で、人を自己破壊や自己処罰、その究極としての死へ突進させてしまう悪魔的な力を指す。この概念はフロイトにおいて画期的なもので、生きることは快楽を目指すことであるといった単純な発想から「生きることは死の欲動との闘いである」といった苦く屈折した発想への転換を示すからである。

このような陰鬱な発想をフロイトにもたらしたのは、第一次世界大戦による(人類史上初の)悲惨な大量死と彼が向き合ったことに加え、彼が咽頭癌を宣告され闘病生活に入ったことが契機となっているようである。死の欲動はきわめて強大でそれに抗うことが難しく、しかも自我はその存在になかなか気づきにくい。それゆえ危険なしろものであるとフロイトは考えた。

戦争や自殺、自傷行為といった現象を説明するために死の欲動を措定したくなるのは良く分かる。切実になればなるほど死の欲動といったアイディアは妖しく輝きを帯びてくる。また、生は不安定きわまりないが死という状態は(いささかシニカルな言い方をするならば)安定の極致である。生命が安心と安定を目指すならば、それはすなわち死を目指すのと同じであるといった詭弁めいた論も成立するだろう。と、そんな調子で、死の欲動という概念にはなずかヒトを饒舌にさせるところがある。

しかし、この概念にはどこかご都合主義的な匂いもするのである。これと「生の欲動」とを上手く使い分ければ、いかなる心的現象もニュースのコメンテーターのレベルで説明が可能になってしまうのではないか。あまりにも便利過ぎるのではないだろうか。

個人的な見解を述べておくなら、死の欲動という部分のみを抽出するのはいかにも理念的であり、フェアでない。現実には、死の欲動は「生への未練」と密に混ざり合っていて、切り分けることなど不可能ではないだろうか。戦争や自殺、自傷行為さらには反復強迫といったものは純粋な破滅指向に駆動されているのではなく、どこか「拗ねる」「甘える」「自暴自棄」「居直り」「(神への)当てつけ」といったニュアンスが伴っているのが通常ではないだろうか。つまり死なずに気持の整理がつけられればそれが何よりであるといった類の心情が、胸の奥に横たわっているものではないだろうか。

そうなると、実は現状を一掃してもういちどやり直したい-いわばリセット願望とでも称すべきものこそを、心的現象を説明するための最小単位のひとつとして措定したほうが実際的ではないかと思いたくなる。リセット願望は、死の欲動と生への未練とを同時に含んだ概念という次第である。

死の欲動について興味がある読者には、まさにそのままのタイトル『死の欲動 臨床人間学ノート』(熊倉伸宏新興医学出版、2000)が示唆に富む。