(巻三十六)刑事とて一句詠みたし雪ぼたる(山田彦徳)

(巻三十六)刑事とて一句詠みたし雪ぼたる(山田彦徳)

4月2日日曜日

曇り。朝家事は特になし。古新聞と使用済みの乾電池を集積場に持ち込む。

昼前から座椅子でゴロゴロ。

昼飯喰って、一息入れて、座椅子でゴロゴロしてから、散歩。八重桜が満開だ。

時間外勤務のやうに八重桜(矢島渚男)

図書館で返して借りた。4冊借りた内の1冊が『法学教室3月号』で、そこしか読まない「判例セレクト」の中の民訴法“受刑者が作業報奨金の支給を受ける権利と債権差押え”、刑法“水増し請求と詐欺罪の成立範囲”は標題から察するに面白そうだ!

黄砂降る街に無影の詐欺師たち(馬場駿吉)

図書館から白鳥生協へ歩き、今日はチキンカツ・カレーで一杯いたした。ご飯は残飯にしてしまったので食べ物を粗末にすることになったが、カツカレーでの一杯は実に旨し。弁当のおかずで一杯と云うのも有りだな。

南風吹くカレーライス海と陸(櫂未知子)

帰りにクロちゃんを訪ねたが不在。シェルターは残してあるからまだ居るのかなあ~?図書館前でトモちゃんにスナックをふるまう。しっかりと覚えていてくれた。

英聴は

https://www.bbc.co.uk/programmes/m0015499

を再聴いたした。

願い事-涅槃寂滅、酔死か即死。

隕石が落ちてきて一瞬で消えてしまうというのは悪くないが、落ちてくるまでが騒々しそうだし、下手に生き残って苦しい思いをしてから死ぬのは嫌だなあ~。要は何でもいいから死を意識せずに死にたいのよ。

というわけで、今日は

「恐竜のギャロップ - 池澤夏樹」エデンを遠く離れて から

を再読いたした。

恐竜も秋刀魚も骨を残しけり(中島正則)

「恐竜のギャロップ - 池澤夏樹」エデンを遠く離れて から

一冊の本の話からはじめよう。

ずっと翻訳の完成を待っていた本がようやく手元に届いた。他の仕事をほっておいて二日間読みふけった。翻訳を待つというのがなかなか微妙なところで、読みたい気持ちは強いけれども、がんばって英語で読むほどではないということ。それでも、あちらを覗きこちらを拾い、半分近くは読んでいたのだが、そこで訳が進行中という話を聞いて後は待つことにした。

その本とは、『恐竜異説』(瀬戸口烈司訳、平凡社刊)。著者のロバート・バッカーというのは最近のアメリカで最も元気な恐龍学者で、自分の書いた本に異説と付けるくらいだから今のところは主流ではない。学会の常識に対する果敢な挑戦者というところだろうか。単に非常識な説だから面白いというのではなく、それを裏付けようと彼が並べる理屈が実にダイナミックで、学説を大きく変えるにはこれくらいの跳躍が必要なのかと思わせる。二十年後に彼が主流となっているか、消滅しかけてそんな説もあったなと言われているか、それはわからない(そういう推移まで含めて、専門家の先端の研究を数年ほどの遅れで素人が追って理解していけるのが現代というマスコミ啓蒙主義の時代の利点だ)。

さて恐龍。周知のとおり話のはじまりは十九世紀に化石が発掘されたことにある。遠い昔、地上にはゾウやサイをはるかに凌ぐ巨大な生物がいたことが明らかになった。やがてアメリカ中西部の荒野で、数量でも種類でもヨーロッパを上回る化石が見つかりはじめ、恐龍学は両大陸で平行進化を開始した。普通の化石と違って恐龍はなにしろ大きい。学問の世界だけでなく、一般の人にもこれはなかなか知的な衝撃で、ちょうど発達の途上にあったマスコミにとっても格好の題材となった。

ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』やコナン・ドイルの『失われた世界』に特別な環境で現代まで生き延びた恐龍が登場するのは、この知的衝撃の当然の結果である。その後も恐龍は通俗文学や映画の中にしばしば登場して、戦後日本を例にとれば映画としてはもちろん大傑作『ゴジラ』のシリーズがあるし、山川惣治絵物語『少年ケニア』にも恐龍は姿を見せている。過去へのタイム・トラベルや外から隔絶された秘境に巨大な爬虫類は欠かせないパーソナルティ-となった。

そして、どの場合を見ても、恐龍は決して悪役としては登場していない。ゴジラ東京湾から上陸して、東京タワーを倒し、有楽町のあたりで電車をかじり、日劇を踏みつぶすけれども、そして最終的には撃退されるけれども、だからと言ってゴジラを人類の敵と見なすことはできない。彼は東京という都市の一部をいわば改築するだけであって、一見派手な彼の破壊活動は決して日本人全体の滅亡につながるようなものではなかった。むしろ、彼はメッセージを忘れていらだつ迂闊なメッセンジャーのように見えた。このような性格設定の中に、恐龍に対して人が感じている親近感が出ている。

われわれはみんな恐龍に強く引かれている。骨格から復元された模型が目前にそそり立つ姿には目を奪われるし、それが生きて動くところを見たいという気持ちがゴジラを誕生させた。恐龍の魅力はどこにあるか。まず遠い過去に繁栄して地上の覇者になったこと、現存のどんな陸上動物よりも大きかったこと、今のわれわれから見れば実に奇妙な格好をしていて種類も多かったこと、しかも今はどんな形でも一頭も残っていないこと。そこまではわかる。問題はその先だ。これらの条件の組合せがなぜ魅力なのか。

たぶん、人間の精神の一番深いところには癒しがたい淋しさがあるのだ。われわれには自分たち同士以外に話相手がいない。地上で唯一の知的生物であるのは威張れることだし、今のところはどんなことでもやりたい放題だけれども、何をやってもどこかにむなしい気持ちが残る。自然の謎をみごとに解いても、百年見ても厭きないような彫刻を作っても、高さ五〇〇メートルの塔を建てても、四二キロを二時間で走っても、自分たちで讃辞を交換するだけのことだ。この淋しさから人は神様を発明し仏様を考案したが、それら超越的な存在を信じるにはそれなりの資質と精神的訓練が必要だし、その力は今世紀に入って速やかに低下した。

恐龍が知的だとは誰も信じていないが、しかし地上にあれだけ栄えるについてはそれなりに優れた生物であったに違いない。知力だけが繁栄の条件ではあるまい。今の時代によみがえってくれたとしたら、たとえ暴力的な稚拙な方法にせよ、なんらかの対話が可能なのではないか。ゴジラの大暴れの背後にはこういう心理がある。自分たちの世界にはもう探すもない。すべての大陸は知られ、すべての島の地図は作られた。残るところというので、われわれは雪男を探しにヒマラヤに行き、UFOを見ようと空を見上げ、ネッシーに夢中になる。宇宙人の存在は確認できないが、恐龍は確かに地上にいたのだ。

発掘された化石の総量が増え、古生物学が発達し、さまざまな恐龍の系統が明らかになるにつれて、恐龍への関心はいよいよ高まった。学問には内的充実の時期と飛躍的発展の時期がある。ここ二十年ほどは恐龍学の飛躍期だったのではないだろうか。民間の関心と学者の努力が相互に刺戟しあったのかもしれない。ここ数年間に出版された恐龍関係の書物の量は過去の全量をうわまるほどだ。その最新のものとして、バッカーの新著がある。

では、この本のどこが新しいのか。ともかく恐龍が元気なのだ。バッカーも自分で挿絵を描いているが、この人は科学関係のイラストレーターとしても食べてゆけるのではないかと思うくらい絵がうまい。この本の中の恐龍は博物館のように硬直していない。跳びはね、尻尾を振りまわし、ギャロップで走りまわっている。そしてこの元気なイメージの背後には、恐龍は実は温血動物であったというバッカーの大胆きわまる新説がある。そう、恐龍は爬虫類には違いないがトカゲやワニのような日向ぼっこばかりの愚鈍な生物ではなく、むしろ大型の鳥に近い敏捷雄大な動物だった。

この説を彼はさまざまに論証していて、そこがこの本の魅力となっている。その具体的な内容は本そのものに任せて、なぜこの元気な恐龍像が目新しいが、そこのところを考えてみよう。実を言うと、今までの学者たちの恐龍観があまりに巨大動物を蔑視するものだったのである。例えば、恐龍は大きすぎて重すぎたから地上を歩くことができず、半分は水に浸かってうろうろしていた。あるいは、顎が小さいから柔らかい水草しか食べられなかった。寒い時は動けなかった。また、頭が小さいので馬鹿だった。だから哺乳類に卵を食べられて絶滅した。等々、ありとあらゆる理屈を並べて恐龍をみじめでみっともない動物に仕立ててきた。

これは得られた資料の客観的な分析の結果としての学説のはずだが、しかしそれ以上に学者たち(ならびに人間一般)の心理の反映だったのではないか。十九世紀にはまだ元気だった恐龍像が今世紀前半になってなぜひたすら駄目な動物として描かれたのか。時代の不安というようなものがそこに影を落としていたとは考えられないだろうか。恐龍は栄え、恐龍は滅びた。とすれば、人間に同じことが起こらないという保証はない。なぜ恐龍は滅びたかという問いに対して、恐龍に滅亡の必然性を付与したい心理が人の方にあったのではないか。しかし、実際には恐龍の仲間は一億数千万年にわたって繁栄した。この事実に対してはそれなりの敬意が払われるべきであるし、そのために大胆な説を次から次へと繰り出しているのが、バッカーのような新しい世代の古生物学者である。

それにしても、われわれはそうまで淋しく、またそれほど滅びる日を恐れているのだろうか。そういう性向を持つ人間という種は、ぼくには恐龍よりももっと興味深い存在に見える。