「賃貸vs.持ち家論争 - 福岡伸一」 迷走生活の方法 から

 

「賃貸vs.持ち家論争 - 福岡伸一」 迷走生活の方法 から

少し前の夜、知人と新宿で飲んだ。ハカセは新宿に全然詳しくない。なので、その知人とはまず紀伊國屋書店で待ち合わせることになった。ここならハカセにもわかる。それにこの書店の奥には、小ぶりながら岩石・化石ショップがあり、新宿にはほとんどこないハカセにとってもここだけはお気に入りの場所。アンモナイトやらラピスラズリ石に見とれていると、彼が背後から声をかけてきた。やっぱりここにいましたね。今日はちょっとした穴場にご案内しましょう。
夜の街を歩きだす。と思えば歌舞伎町方向へ。そちらはますます不案内だなあ。ある雑居ビルの前まで来るとおもむろに暗い階段を降りる。え、この下にお店があるんですか。看板も何も出ていないけれど。階下につくとそこにはのれんが。中にはカウンターとちょっとしたテーブル席のわりと品のある割烹。へえ、確かに穴場ですね。ならんで座って、さっそく一献。
今年もいろいろありました。私たちもなかなか落ち着きませんね。そうそう、この前、試しに数えてみたらハカセはこれまでの人生で二十回も引っ越ししているんです。今も日本と米国を行き来していますし、終の棲家なんて夢のまた夢ですね。
その知人も職住近接を選んで、ずっと賃貸派だそうな。そうそう、賃貸vs.持ち家。これは住まいをめぐる永遠の論争になっている同じお金を払いつづけるなら賃貸ではなく、ローンを払って最後は自分の持ち家になる方がよいではないか。いやいや、人生、いつ何時、何が起きるかわからない。巨額の借金など背負わず、そのときどきで住みたい場所に住むほうがよいではないか。侃々諤々[かんかんがくがく]。実はこの論争、進化論的にはとうの昔に決着がついている。われら賃貸派の勝ちなのだ。
イカを調理したことがある人はご存知と思いますが、コウイカなどの体内には平たい皿状の”骨”がある。ヤリイカスルメイカなどではさらに薄い透明のプラスチックのような“骨”がある。俗にイカの甲と呼ばれているこれ、ほんとうは骨ではありません。これは貝殻の名残り。そう、先ほどハカセが化石ショップで眺めていたアンモナイトアンモナイトは貝類ではなく、貝殻の中にはイカのような軟体生物がいたと考えられている。でも軟体部分はその名のとおり柔らかい組織なので個体が死ぬとまもなく消え去り、殻だけが残って化石となった。
そのアンモナイト、恐竜が闊歩していた時代には大繁栄して世界中の海に棲息していた。硬い殻は外敵から身を守るのに役立ったが、一方でたいへんな負担にもなっていた。「持ち家」には維持管理のコストが重くかかるのである。殻の主成分はカルシウム。常にメンテが必要で、成長に伴って大きく作り変えていかねばならない。そのためにカルシウムを含む餌をたくさん食べなくてはならない。
アンモナイト(のさらに祖先)の一派は、その負担に耐えかねて殻を捨てることにした。いっそ殻を脱げば、維持の苦労もないし、身軽に行きたいところに行ける。隠れたいときは狭い隙間にも潜り込める。すると新しい餌にありつけるかもしれない。殻をもたない一派は、自在に泳ぎながら本当の骨を進化させて魚になり、陸に上って両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類へと変身を遂げた。つまり、賃貸派は進化の可能性を拓いた。つまり私たちヒトはもともと賃貸派の末裔なのである。
今から六千五百万年前、大隕石が地球に衝突して気温が下がり、植物の光合成が低下した際、殻を背負っていたアンモナイトは絶滅してしまった。なので持ち家派は環境が安定しているあいだはよいが、ひとたび天変地異が起きたとき、臨機応変に動けないのである。それでもあなたはなお「持ち家」が欲しいですか?