「心安らかな「平穏死」を迎えるために(抜書) - 石飛幸三」人は死ぬとき何を思うか から

 

「心安らかな「平穏死」を迎えるために(抜書) - 石飛幸三」人は死ぬとき何を思うか から

延命治療の限界、生かされている老人たち

血管外科医として四十年以上医療現場の最前線に立っていた私が、特別養護老人ホームの常勤の専属医になったのは平成十七年のことです。
それまでの私は外科医としてたくさんの手術を執刀し、多くの医者同様、目の前の疾病を取り去ることが務めであり、一日でも長く生き延びることがいいことだと考えていました。
しかし、社会の高齢化に伴い、いずれ誰にも訪れる老衰を思うとき、改めて医療のあり方、患者さんにとって何が大切なのかを自らに問いかけるようになり、延命至上主義の医学へ疑問を抱くようになりました。そんな折、東京都世田谷区の特別養護老人ホーム「芦花ホーム」の専属医にならないかという話があり、思い切って転身したのです。
初めて芦花ホームを訪れたときの衝撃を今でも鮮明に覚えています。ホーム入所者は約一〇〇名いて、その中の一六名の方が胃瘻[いろう](お腹に開けた穴から胃に向けて管を通したもの)や経鼻胃管(鼻の孔を通して胃に入れられた管)から経管栄養を受けてベッドに横たわっていました。
誤解を恐れずに正直に申し上げれば、人間こうまでして生きなければならないのか、というやるせない思いで胸がいっぱいになりました。
ご家族にしてみれば、一日でも長く生きてほしいていう思いをお持ちでしょうが、多くの方は意識もなく、寝返り一つ打つことができません。当然喋ることもできず、自らの意思とは無関係に一日三回、宇宙食のような液体を胃に直接注入されます。まさに、ベッドの上で「生かされている」状態で、私にはこの人たちが苦行を強いられているようにしか見えなかったのです。
ホームに入所しているお年寄りの九割は、程度の差はあれ認知症です。
認知症の人は、決して何もわからないわけではありません。たしかに自分が現在置かれている状況を十分に把握しているとは言えませんが、それでも長い人生のなかでさまざまな苦労をして十分生きてきたという誇りを持ち、他人に下のお世話をしてもらうことに抵抗や葛藤を抱く人も少なくありません。情緒的な感覚は残っているので、自分の生きざまについての感覚は、我々が思う以上に研ぎ澄まされているようにも見えます。
たとえば、リウマチで手足が不自由な八十歳代の女性は、回診に来た私によく、「以前入院した病院で乱暴な扱いをされたため歩けなくなった」といった不満をぶつけていました。それについて裁判を起こしているとも言っていましたが、調べてみると事実無根でした。
あるときふと思い立ち、私が撮影した花の写真を額縁に入れて、彼女の部屋に飾りました。彼女は「お代を払う」と言いましたが、「趣味でやっていることですから」と断りました。季節が変わるとまた別の花を飾り、そのときも「お代を払う」「けっこうです」というやりとりがあり、そんなことを二、三回繰り返すうち、以前入院した病院への不満を口にしたり、裁判の話をすることはなくなりました。
また、挨拶の終わりに必ず「今日はいい天気ね」と女性がいます。どんな天気でも「いい天気ね」で、私も「そうですね」と答えます。かつて花柳界で働いていたそうで、回診のたびに私に逢い引きを迫ります。ただ約束をするだけですが、それがもとで問題が起きたことは一度もありません。
このような冗談を言いながら認知症の方とつきあうのは、ときにこちらが慰められているようにも感じます。不思議と幸せな気持ちになるのです。
そんな方々に、ただ長生きさせたいという理由から、胃瘻や経鼻胃管をするのは正しいのでしょうか。

 

口から食べられなくなったら、どうするか?

これは高齢者医療の大きな問題の一つです。端的に言えば、老衰が進んで「口から食べられなくなったとき、どうするか?」という問題です。
老衰の果てに認知症の人は中枢神経の障害により、口から食べた物を飲み込む機能が低下しています。無理に食べさせようとすると誤って気管に食べ物が入り、肺炎を起こします。これを誤嚥性肺炎と言います。
生きるためには、食べなければなりません。しかもホームの入所者にとって、最大の楽しみは食べることです。その食べるという行為が、お年寄りの命取りになるという逆説が生じるのです。
そこにはホーム側の事情もあります。飲み込む機能が低下している、すなわち嚥下[えんげ]障害のある人に食事をしてもらうには、少しずつ口の中へ食べ物を入れる必要があります。このとき喉の奥に食べ物が残っていないか、次の一口を入れてもよいが慎重に見極めなければなりません。液体だと気管に入りやすいので、片栗粉でとろみをつけて飲み込みやすくしたり、ゼリー状にするといった工夫も必要になります。
とはいえ、一人ひとりの食事にかけられる時間は限られています。一人に費やす摂食介助は平均二十分以内にしないと他の業務に支障を与えると言われています。介助の最中に隣りのお年寄りがトイレに行きたいと言い出すこともあります。そうした慌[あわただ]しい時間のなか、まだ口の中に食べ物が残っているのに、次の食べ物を口の中に入れてしまうことがあります。これが誤嚥性肺炎につながるのです。
誤嚥性肺炎自体は、病院に入院して抗生剤や強心剤を使うことで治ります。とは言え、飲み込む機能の低下自体は治りません。口から食べるとまた誤嚥し、肺炎ということになるので、病院としては胃瘻や経鼻胃管を勧めることになります。
意識がしっかりした人なら「そこまでして生きたくない。私の寿命なので、もうけっこうです」と言うことができるでしょう。ところが認知症の人は、そうは言えません。一方、家族のほうも、生き続けられる方法があるのに、「けっこうです」とはなかなか言えません。そこで医者に勧められるまま、胃瘻や経鼻胃管をつけることを承諾するようになるのです。
では、胃瘻や経鼻胃管で栄養を流し込めば問題解決かというと、そうはなりません。これらは別の問題を誘発することになります。通常、食道と胃の接合部には逆流を防ぐ機能があります。ところが高齢者ではその機能が低下していることが多く、胃に入った食べ物が食道に逆流することがあります。経鼻胃管では、この逆流が起こりやすく、そこから肺炎を起こしやすいのです。これを慢性誤嚥性肺炎と言います。肺炎を防ぐための装置が、別の肺炎を引き起こす原因をつくっているのです。
さらに言えば、胃瘻や経鼻胃管には、もう一つ肺炎を起こしやすい条件があります。口から食べるときより唾液の量が少なくなるので、唾液による口内の洗浄があまり行われません。そこから雑菌が繁殖し、気道感染を誘発しやすいのです。
誤嚥性肺炎を起こせば、病院に送って治療することになりますが、治ってホームに帰って来るとまた誤嚥性肺炎を繰り返し、慢性化してしまうことも多々あります。それが原因で亡くなるケースも少なくありません。これでは何のための栄養補給なのかわかりません。そもそも無理やり栄養を流し込むことが治療と言えるのかという問題もあります。
病院で行われている点滴も、高齢者のためになっていないことがあります。誤嚥性肺炎で入院すると、点滴で抗生物質と補液の投与による治療が行われます。このとき投与する水分量はいちおう計算されていますが、老衰末期の高齢者の体の状況は医者も十分につかみきれていません。多すぎる量を投与している可能性もあり、この場合、肺水腫[はいすいしゅ]を起こし、肺は水浸しになります。その負荷に心臓が耐えかね、そのまま病院で亡くなってしまう方もいるのです。
医療技術の進歩と延命主義による自縄自縛[じじようじばく]におちいっているのが、高齢者医療の実態と言えます。何人もの高齢者を看取るとよくわかります。食べさせないから死ぬのではなく、死に向かうために食べなくなるのです。
彼らは十分に頑張って生をまっとうし、死という休息の準備に入るために食べなくなるのに、無理に栄養を入れて延命させ、誤嚥性肺炎などを起こして苦しい思いをさせている。それが果たして本人の望む最期なのでしょうか。
(ここまでにしておきます。)