2/3「死はなぜこわいか - 岸田秀」中公文庫 続ものぐさ精神分析 から

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2/3「死はなぜこわいか - 岸田秀」中公文庫 続ものぐさ精神分析 から
 
人間のさまざまな営為は、この不安定な自己に安定した基盤を与え、死の恐怖から逃走しようとする企てであると考えられよう。以前あるところでわたしは、人間が時間というものを発明したのは、過去において自分の生命を充分に生きなかった悔恨のためであり、未来という時点を設定したのは、その悔恨に償いをつけるためであると指摘したことがあるが、別の言い方をすれば、過去、現在、未来と流れる一本の線としての時間は、自己が一貫して存在できる場として必要なのである。時間とは、自己の仮の宿であり、この仮の宿がなかったら、自己は身の置きどころがないであろう。本当の宿はないのだから。
私有財産制の起源も死の恐怖に求めるべきであろう。安定した現実的基盤を何ももたない自己は、せめてこの世界のなかに自分の所属する確乎とした物質的実在を所有することによって、そこによりどころを求めようとするのであろう。しかし、財産は墓場までもってゆくことはできず、自己の永続性を何ら保証しない。そこで、子どもを自己の延長と見なし、子どもに財産を伝えることによって自己の永続性を保証しようとして、家族制度、世襲制度がつくられたのであろう。世襲されるのは、別に財産でなくともよく、地位でも名誉でも、何らかの特殊な知識や技術でもかまわないが、とにかく自己の存在の基盤が自分一代で消滅し、それとともに自己が跡かたもなく消滅することに耐えられないという死の恐怖にこの制度の起源があることは間違いない。また、養子制度や襲名制度に見られるように、自己の所有する財産等々をつぐのは、必ずしも自分の生物学上の子どもでなくてもよく、とにかくそこに自己の延長を見ることさえできればよい。いわば、世襲制度は生物学的な世代の連鎖の代用品である。われわれの自己は、その連鎖から浮きあがり、切り離されているので、その連鎖によっては自己の永続性を支え得ないから、世襲制度という代用品をつくってわれわれの自己を次の世代の自己へとつなごうとしたのである。
人間の集団の形成、とくに国家の形成もこの観点から理解しなければならないであろう。さきの言い方をもう一度使えば、国家も動物の場合なら個の生命がその一部であり、そこに所属している類の生命の代用品なのだ。われわれの自己は、本来、自分だけのものであり、どこにも所属していない。われわれはそのことに耐えられない。そこで、われわれの自己、他の人びとの自己を包括するより大きな全体的自己として国家を形成したのである。われわれは国家のなかに自己の永続性の保証を見る。そうできるためには国家は永遠でなければならない。わが国の場合で言えば、国家の中心たる天皇万世一系でなければならず、君が代は千代に八千代に、さざれ石の巌となりて苔のむすまでつづくのでなければならない。アメリカの場合で言えば、星条旗は永遠でなければならない。ローマ帝国も永遠であるはずであった。言うまでもなく、これは(共同)幻想であるが、その不合理性、危険性が明々白々であるにもかかわらず、われわが天皇制を完全に断ち切ることができないのは、われわれの死の恐怖がそれを支えているからである。国家を支配階級が被支配階級を抑圧するための権力機構とのみ見る理論はついに国家を克服し得ないであろう。そのような理論は、国のために生命を捨てる人間が被支配階級からすら出る事実をどうにもできないからである。わが国の場合、死の恐怖からの逃走手段としての世襲制度は社会のあらゆる層に強く根を張っており、それに支えられた天皇制が頂点に立っているのであって、もしでなくするとしたら、その悪口を叫んでいるだけではだめで、そのためにはわれわれが、自己は完全に何の跡かたも残さずいつかは消滅するという事実を認め、死を直視してその恐怖に耐えることができるようにならなければならない。それができずに、なおかつ天皇制をなくするとしたら、万世一系天皇以外に、われわれの自己の永続性の(共同)幻想を与えてくれる何ものかが必要となろう。N.O.ブラウンも言っているように、永続性、不滅性の宗教なしには、いかなる社会集団も存立し得ないからである。その背後にあってこの幻想を支えている死の恐怖を過少評価してはならない。