「『銀河鉄道の夜』について - 吉本隆明」宝島社刊読んでおきたいベスト集宮沢賢治  から

 

「『銀河鉄道の夜』について - 吉本隆明」宝島社刊読んでおきたいベスト集宮沢賢治  から

宮沢賢治の童話でもっともすぐれた作品で、また特色がいちばんよくあらわれているのは『銀河鉄道の夜』でしょう。『銀河鉄道の夜』という作品については、いろんなたとえができます。銀河鉄道宮沢賢治がかんがえているものは、仏教でいう死後の世界をへめぐることと同じだというなぞらえ方をしたこともあります。またたとえばウァリアム・モリスみたいな人のユートピア物語のなかの、テムズ河をさかのぼっていくうちに、両岸に理想の村や町や田園がひらけるという、道行きを頭においてつくられているというなぞらえ方をしたこともあります。また別のなぞらえ方をすれば、箱があって、箱の中は明るくて、人々が食べたりしゃべったりしながら、そこに乗っている。その箱が暗い空に浮かんでどこか現実の世界の空から、違う空間の世界の空へへめぐっていくというイメージの世界を、思いどおりのかたちで描いているのが『銀河鉄道の夜』という作品だといってもいいとおもいます。
この作品を読む場合、登場人物たち、とくに主人公のジョバンニや副主人公のカンパネルラの敏感な気づき方とか、察知のしかたとか、わかり方をよく描いていることが、とても大きな特徴で、この作品をいい作品にしている要素だとおもいます。
たとえば冒頭の、午后の授業という場面がそうです。先生が理科の時間で銀河の説明をしているところがあります。そして銀河というのは、よくよくかんがえると、何からできているんだとジョバンニに先生がきくわけです。するとジョバンニは、これはたくさんの星からできているということを聞いたことはあるし、知っているつもりなんだけど、ふだんアルバイトをして母親の生活をみているものだからくたびれていて、そういうふうに指されて立っても、おっくうで答えられないわけです。それはいわば作者のもっている察知の力にかかわるとおもいます。つまり、そういう敏感さは心理的な敏感性なんですが、宮沢賢治はそれを一種の倫理の敏感さにもっていこうとするわけです。そこはいつも感心さますが、くたびれていると、そうだと思っても、そうだというのがおっくうで確信がもてないという体験は、誰にでもあらます。それをとてもよく描写しています。すると、今度は親友のカンパネルラがまた敏感な察知を働かせます。ジョバンニが疲れていて、知っているんだけど答えがきめられないんだなと思って、すぐに同情するわけです。先生はカンパネルラを指して答えをもとめます。もちろんカンパネルラは即座に答えられるわけですが、ジョバンニが答えられなかったことに同情して、自分も答えないでモジモジしてしまうのです。すると先生がそれをみて、あんなに優秀な生徒が、知っているのに答えないのはジョバンニのことを思いやって、わざと答えないんだなという察知を働かせます。そして先生は銀河は、たくさんの星の集まりですという説明を自分でしてしまいます。
これが『銀河鉄道の夜』の冒頭にある「午后の授業」の一節です。この一節だけでいっても、心理主義的な作品としていい作品だということがわかります。しかし、よくよく作者の思惑を察知してみますと、心理主義的な作品を描こうとしているのではありません。その心理主義的な察知の仕方を、倫理として、つまり人間の善なる行いであるというふうにもっていきたいのが宮沢賢治のモチーフだとおもいます。
モチーフがどこからくるのかは、たいへん明瞭で、仏教的な倫理観からだといえます。法華経という経典の根本的な倫理は菩薩[ぼさつ]行ということです。つまり超人的な意志で自分を粉にして人に与えてしまうというのが菩薩行です。そして、勇猛果敢にそうしなくてはというのが、法華経の行者としての日蓮の定義だとおもいます。そこで菩薩はどんな特性をもっているのかといいますと、ひろく大乗仏教の理想ですが、鋭敏な察知がすぐでき、その察知のように他人を救済することです。つまり、相手が何をかんがえているかすぐにわかることはもちろん、遠くに離れている人も救済をもとめていれば、すぐにその場所に行ってその人を救けられる。菩薩の察知はそんな時空を超えたものです。宮沢賢治は自分が菩薩であろうとした人ですから、そんなふうに理想の自分をかんがえました。『雨ニモマケズ』というよく知られた詩がありますが、そのなかで「ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」ということばがあるでしょう。あれは本当は、ただそういっているだけじゃなくて、菩薩でありたいということです。つまり、人のいっていることは、よく耳にいれ全部わかってしまう。そしてそれを忘れない。そこへすぐに行けて、困っていたらその人を救けられる。そんな超人的なことはできるわけないよといえば、できるわけないのですけど、それが宮沢賢治の理想だったということです。

 

ジョバンニは、母親の牛乳をとりに行って、牛乳屋さんが留守で、その町のはずれの丘に登って、下の町の明かりをみています。そのうちにジョバンニには、町の明かりが空の星のように見えてきて、逆に今度は空の星が、町の明かりのように見えてきます。本当の町と星の風景とが、入れ代わったみたいな、奇妙なファンタジーの状態に入っていきます。すると山の頂上に天気輪があるのですが、天気輪がピカピカと明滅したかたとおもうと、自分が町の明かりのところを通っている列車の中に、いつのまにか乗っています。町の明かりと空の星とがわからなくなってきたり、さかさまになってきたりしているうちに、入眠状態になってひとりでに列車の窓の内がわの人になっていきます。それから銀河鉄道で銀河を旅することになるわけです。そういう、眠りと、眠りのなかの夢と、それから現実に自分が列車の外の丘の上で見てたのに、いつのまにか列車の中に入って旅人になっています。実に見事に現実とファンタジーが接続されています。この現実と夢と夢のなかのファンタジーとがスムーズに接続されておかしくないのはこの作品の特徴だと思います。そして、自分は夢のなかで出会ったように列車の中に乗っているんですが、ほかの乗客は、全部死んでしまった後の世界の人です。カンパネルラもそうです。つまりスムーズに、現実の世界と夢の世界と、それからいわば仏教でいう死後の世界との接続がなされていて実に見事です。それはこの『銀河鉄道の夜』の大きな特徴のひとつということができます。
もうひとつたいへんな特徴を挙げてみるとすれば、ジョバンニが列車の中でいっしょになる親友のカンパネルラも、鳥を捕る人も、列車の客は全部死後の世界の人だというふうに、ひとりでに描かれていることです。そしてそれぞれの信仰にしたがって、自分が死後の理想の世界だとおもっているところが全部違うというところが、ひとつの重要な考え方だとおもいます。ですから、カンパネルラは列車に乗っているうちに、「おかあさんがいるのはあそこだ」といって、そこが理想の世界で、自分はそこで降りなくてはというのですが、ジョバンニにそこを見てもちっとも理想の世界に見えなかったというふうに描写されています。つまり、理想の世界というのは、それぞれのもっている宗教的な信仰によって違うというふうに、この『銀河鉄道の夜』では描かれているとおもいます。それは宮沢賢治の重要な理念だとおもいます。
カンパネルラはそこで降りていってしまうのですが、どうして自分といっしょにどこまでも行こうといったのに、降りてしまったんだろうかとジョバンニは嘆きます。また、列車の中に沈没する船の救命ボートに最後まで乗り移らないで、おぼれて死んでしまった姉弟とその家庭教師の若い男の人が乗り合わせますが、その姉弟たちも、十字架の見えるところで、あそこで降りなければというふうにいいだすわけです。ジョバンニが、どうして自分といっしょに行かないんだとたずねると、その姉や青年が、いや、あそこは自分たちの神様がいる世界で、理想のところだからそこへ行かなければいけないと答えるのです。ジョバンニはそんな神様はうその神様だといっていい争います。キリスト教の神の信仰ということなんでしょうけど、姉弟と家庭教師はそこで降りていってしまいます。ジョバンニは、どうして人々の信仰というのは違ってしまうのか、その信仰が違うにつれて、人々が理想とするものがどうしてみんな違ってしまうのだろうかということを思い悩みます。そこからが宮沢賢治のとても重要な思想になります。

そういうふうに、どうして人々は全部自分の信じている神-思想とか理念とか信念も含めていっていいんですけれども-いちばんいいものだとおもってしまうだろうか。そしていい争いをすればどうして勝負がつかないで、おまえのほうがいいとか、おれのほうがいいというふうになってしまうのだろうか。なぜたったひとつの、真実の信仰というのはないんだろうか。でも、それにもかかわらす、自分と違うものを信じている人たちのやった行いでも、感心したりすることがあるのはどうしてだろうか、ということをジョバンニはかんがえるわけです。
銀河鉄道の夜』の初期形のなかには、ひとりの長老が出てきて、ジョバンニの疑問に対して、誰が信じているものがいいのかというのはわからないけれども、自分もどうしたらそれがわかるかということをさがし求めているんだというところがあります。つまりどこにも解決はないけれど、しかし本当の考えとうその考えということが実験で分けられるようになれば、それは化学だって宗教だって同じになるはずだ。つまり誰にとっても真理、誰にとっても神というようなものが得られるはずだというふうにいうわけです。そこは宮沢賢治が生涯の理念としてかんがえつづけたとおもいます。『銀河鉄道の夜』では、ジョバンニがその課題を背負わされています。
ジョバンニが目を覚ましますと、自分は丘の上で眠っていたことがわかります。おかあさんの牛乳をとって、そのついでに町の銀河の祭りで、みなが河に烏瓜の灯籠を流すのを見にいこうとして、丘を下りて橋の上のところまで行くと、人々がかたまっているなかに同級生たちがいて、ザネリという同級生がおぼれそうになって、それを助けようとしてカンパネルラは水にのまれてしまって、なかなかみつからなくて、いまさがしているところだと話してくれます。それを聞いて、ジョバンニは夢のなかで自分はカンパネルラと会った。そしてあの銀河のはずれのところにしかもうカンパネルラはいないはずだとおもいます。カンパネルラの父親が来ていて、おぼれて四十五分たってみつからないから、もう死んだとおもうといって、友だちたちに、あした学校が終わったら、うちへみんなで遊びに来て下さいといって、ジョバンニに対してもあなたもいっしょに来て下さいといいます。あなたのお父さんから手紙が来たけれども、すぐに帰ってくるはずですよと教えてくれるところで、『銀河鉄道の夜』は終わっています。これは宮沢賢治が現実の世界と、夢の世界、ファンタジーの世界と、それから死後の世界というものを、自分のなかでスムーズにつなげることができた、成功した唯一の作品だとおもいます。宮沢賢治の散文、あるいは童話の作品のなかで、もっともすぐれた作品です。
宮沢賢治が自分に問おうとして、解決がつかなかったことは、現在でもやはり解決がつかないことです。それぞれが信じている神様のうちどれがいいのかということを、誰も決める基準をもっていません。その状態は、いまも同じだとおもうのです。その状態は理念としていえば、宮沢賢治が最後まで追求し、かんがえたことだとおもいます。そこが、宮沢賢治の文学の理念として、手が届いたいちばん果てのところだとおもわれます。そして、心理主義的にも仏教理念的にもたいへん見事な作品だとおもいます。この作品でみるかぎり宮沢賢治は、童話という限定もいらないし、宗教という限定もいらなくて、とても大きな芸術性として、われわれ近代文学以降でいえば、もっとも遠くまで、またもっとも大きなところまで、作品の手をのばして、それを達成した詩人だといえるとぼくはおもいます。でも、たくさんの問題を、未知のままかかえて終わったということは確かで、われわれにたくさんの課題をおいていったことは疑いようのないことです。

※この文章は、‥……。もともとは日本近代文学館主催「昭和の文学・作家と作品」(一九九二年七月)において講演されたものです。