「カナシイ夜は「賢治全集」 - 井上ひさし」ちくま文庫井上ひさしベスト・エッセイ続ひと・ヒト・人 から

 

「カナシイ夜は「賢治全集」 - 井上ひさしちくま文庫井上ひさしベスト・エッセイ続ひと・ヒト・人 から

十年ばかり前、オーストラリア国立大学の日本語科に招かれて教師のまねごとをしていたことがあるが、そのとき学生諸君のなかに宮沢賢治の愛読者が大勢いるのを知ってとてもうれしかったことをおぼえている。
さっそく注釈をつければ、彼等は自分たちの眼力で賢治を発見したのではなかった。現在は日本に居を定めて作家活動をしている。ロジャー・パルバースさんがそのころ日本語科の助教授で、じつはこの人が賢治のすぐれた読み手だったのである。
つまり賢治は、はじめは教材として学生諸君に与えられたのである。しかし賢治はすぐさま外国の若者たちの心をとらえた。それもじつにしっかりと。なにしろ、「賢治はわたしの新しい聖書です」と、きっぱりいう学生が何人もいたぐらいだから、これはナミタイテイな読まれ方ではない。いうまでもなく日本の若者のあいだでも賢治は熱っぽく読みつがれている。
ではなぜ賢治はこれほど若者に愛読されているのだろうか。いや「若者」という枠を設けて語るのは不正直というものだ。筆者のような中年おやじにも筑摩書房の全集を枕許に並べてからでないとなんだかカナシクテ寝つくことのできない夜があるのだから。
なによりもまず賢治は一個の宗教者だった。それも宗教イデオロギーを独善的に振りかざすたぐいの分からず屋ではない。また手前勝手に超越者をつくり上げて、その超越者にしたがわない人間はみんな愚者、ときめつけてかかるような不寛容でコワモテの宗教家でもない。むろん宗教業者でもない。賢治はそういった宗教家たちのはるか彼方にいる。宇宙の生命と交わるところにいる。永遠とかさなるところにいる。
生化学者のオパーリンは「生物と無生物とのあいだにはまったく基本的差異はない」といったが、賢治が立っているところはまさにそのあたり、だから彼は作品のなかで銀河だの星だの石だの秋の山だのシグナルだのと語り合ったり、親しい感情を交換し合ったりすることができるのである。賢治は、宇宙のすべてのものと交信可能な、個という制約をかるがる飛びこえた、そのような宗教者だった。
同時に賢治は科学者でもあった。これまた「科学こそ世界を救う」と云い立てて二十世紀のキリストを気取るようなアツカマシサは爪の垢ほどもない。専門という名のタコツボに立て籠って自分の研究成果がどう悪用されようと知ったことではないと澄ましているような無責任さとも無縁である。まして企業家に仕えるタイコモチ科学者ではない。
熱力学第二法則(エントロピーの法則)だけが唯一たしかだと信じていたことからもわかるように、賢治は科学の進歩の限界を察知していた。べつにいえば彼は顕微鏡の下の世界から天体望遠鏡のかなたの世界までを、いかにもまっとうな科学者らしく冷静にひとまとめにして眺めていたのである。
しかも彼の場合、宗教者賢治と科学者賢治とがたがいにツノを突き合わせ足をひっぱり合って泥仕合、というふうにはならなかった。それどころか霊感を科学的文脈で鍛えてだれもがわかるものにし、科学お得意の冷えた分析的な見方を天啓で熱くした。そこに稔ったのが彼の作品群である。

彼の作品では例外なく、なんだか奇妙に熱い飛躍と、なんともいえない奇体な冷静さとが同居しており、この相反するものが二本の柱となって、ある構造をつくる。すなわち極端にちがうものが柱となって両極となるのだから、その構造はほとんど全宇宙を覆ってしまうほど巨大である。こんな力業ができるのも詩人のなかで宗教と科学とがたがいにたえず練磨し合っているからこそだろう。
詩人をはじめとして小説家や劇作家の運命はたいていきまっている。ほとんどがその死によって忘却がはじまるのである。賢治はその例外のひとつで、ときがたつにつれて読者がふえてゆく。がしかしその理由はこれまで書いたところでもあきらかだろう。
かつて宗教が人間に幸福をもたらすとさかんに信じられていた時代があった。むろん現代でも宗教を頼みの杖に世間という涙の谷をどうにかこうにか渡り切ってどこかにあるらしいやすらぎの園へたどりつきたいとねがう人は多い。だが人びとは、独善的で、不寛容で、どこか業者風な宗教に疑いの念を抱きはじめた。若い人たちは宇宙まで勘定に入れているから、とりわけこの傾向がつよい。相当しっかりした地球論や宇宙論の用意がないと若い人たちはついてこない。そこで若い人たちは、宇宙の生命と交わるところにいる賢治を愛読するのである。
この数百年、人びとは科学に期待をかけてきた。科学こそが人間に幸福を贈ってくれるだろうと信じていたのである。そしてごく最近までその信仰はみごとにむくわれてきていた。
ところが現在ではどうか。科学とはひょっとしたら〈地球規模の土木工事技術〉の別名ではなかったか、と考える人がすくなくない。地球で生きる時間を余計に残している者ほど、つまり若ければ若いほど、そのように考えている。科学の指数関数的な発達がやがて地球をこわすのではないかと直観して、その地球の上で生を営む人間というもののあわれさを見つめる心を持った賢治に、若い人たちが信頼を寄せるのは、だからアタリマエなのである。
もっとも賢治は人間の営みのあわれさを乗りこえる手段をいくつか読者にのこしてくれたように筆者には思われる。紙幅に限りがあるので一つだけ書いておくと、たとえば法華経による世界認識がそれで、一滴の水、一輪の花、一本の樹木のうちに全宇宙がそっくり写しとられている、と賢治は作品のいたるところでささやいてくれる。
とすれば筆者の、さして上等とは思われぬこの身体も全宇宙の写しであるにちがいない。それなら、たとえ何歳で死のうと、全宇宙と同じだけ永く生きたということになる。ゴーギな話じゃないか、それならまあ死んでもしかたがないな-、そう思うと、どこかで大鎌をとぎながらこっちの隙をうかがっているにちがいない死神がさほどおそろしくなくなってくる。だからなんだかカナシイ夜は枕許に「賢治全集」を並べておくのである。