「文士の生活 - 永井荷風」岩波書店荷風全集第十一巻 から

 

「文士の生活 - 永井荷風岩波書店荷風全集第十一巻 から

文士の収入程憐れなものはない
抑[そもそ]も文学に依つて生活すると云ふ事が無理ではないかと思はれる。外国のやうな著書の沢山売れる処は、従つて報酬も多いが、一版千部か千五百部で、それも売出した当時きり寿命がない日本で、印税から得る所の報酬のみで生活すると云う事は頗[すこぶ]る不安である。
幸か不幸か、私は今親の脛噛りで、別に生活の上の苦痛を知らずに居るが、若し破産をするなり、何かの事情が持上つて、自分で自分の汗に依つて生きて行かなければならぬやうになつたら、私は今の様に文学を弄[いぢ]つて行く少しも考へはない。もつと別な方面でもつと金の儲かる仕事をして行く。そして和歌とか俳句とか云ふ暇のかからぬ文学に遊びたい。私は今までも、亡父と喧嘩などした時には、自分で喰ふと云ふ事を考へて見た事もあつた。日本料理店を出して見やうと思つた事もある。カフエーやバーの商売を始めやうと思つた事もある。
文学其物は、元より高尚な物に外ならぬであらう。併[しか]し文学をやつたと云ふ事が、抑も矢張道楽ではあるまいか。私はさう思つて居る。かう云ふと世間では高踏的だとか、「遊び」だとか、人生に触れないとか云ふかも知れぬが、其物に依つて生活の保證を得られない文学に依つて衣食すると云ふ憐れな境涯で、果してどれ丈[だ]け人生に触れるか、私には解らぬ。
私の今の収入は、文学に依つて得る処は極めて少い。其上又極めて不定である。少い乍[なが]らも矢張私の収入の重[おも]な物は、慶応の教授としての月給であるが、額は学校の方で極めて秘密にしてあつて、会計と私の外には、誰も知らぬ程だから、公表することは出来ない。併しかう云う収入で衣食する必要がないから、文学の研究の為に消費し、好きな書物を買つたり、芝居を見たりして、費つて了[しま]う。小説の方の収入などは、悪銭身に附かずで、入つたも入らぬも同じである。私の家の不動産と云ふ物は、私の作つた物ではなく、親の物であるし、私は其脛噛りをして居るのだから、私は衣食させて貰つて居る居候も同じで、これを私の物と云ふ事は出来ない。

私の味感は極めて幼稚な物
である。他人[ひと]が私を喜ばせるつもりで、浜町の常磐などへ連れて行つて呉れることもあるが、私は一向有難いとも思はぬ。常磐の料理も、此辺[このへん]の場末の仕出し屋の料理も、私には同じにきり食ひない。私が食物[しよくもつ]の上で野暮だと云はれるのは此為である。私は西洋料理は余り好きではない。牛肉や魚肉なども余り好かぬ。魚[うお]ならば川魚がいい。野菜物の造りは極好きである。酒は少しも飲まぬ。菓子は良く食ふ。殊に食事の後に食ふ事が多い。それも「ねぢんぼう」とか大福とか金つばとか云ふやうな下等な駄菓子類が好きである。たばこ[難漢字]は刻みの白梅ばかり。葉巻やエヂプトは嫌ひだし、日本の紙巻たばこ[難漢字]は尚更嫌ひである。
着物は家に居ては無論和服、学校や集会に出る時には洋服。それも洋服の為に洋服を着るのでなく、洋服だと少し位穢[きたな]くとも差支えないし、又よごれないからと云ふので、仕事着のつもりで着る。殊に雨の日などは、下駄で歩くのは困難だから、ハネが上つてもいいから、と云ふ意味で用ひて居る。併し着心地のいいのは和服である。心持良く散歩でもしやうと云ふ時には、和服にする。
日本服は渋い好みがいい
例へば万筋の結城紬でも着て、帯は紺か茶の献上の角帯。羽織は鉄無地か縞。足袋は白足袋。
実は私も着物に対しては、種々な趣味がある。ああもしたい、かうもしたいと思ふが、私共の年配、此三十代と云ふのが、身装[みなり]には一番困る時代である。もつと若いなら、ニヤケても人が若いからと云ふので許して呉れるし、年寄なら又却[かへつ]ていいものだが、中年で余り妙な身装をすると、妙に誤解されるし、年が若いからと思つて結城紬辺[あた]りで差控へて居るのである。凝つて思案に能[あた]はずの方かも知れぬ。
唐桟は目立つから嫌ひである。大島も嫌ひ、お召は尚嫌ひ、凡[すべ]て燻[くす]んだ身装がいい。

住居[すまひ]-若い頃は更にそんな事を考へて見た事もなかつたが、年を取るに従つて、住居に対する趣味が加はつて行く。若い時分は外が面白いが、段々年と共に外が面白くなくなつて来る。此頃は待合に泊る事も無くなつた。外の歓楽を家庭の中に移さうとする心が起つて来た。家の中でも綺麗にして、さつぱりした処に住みたいと思ふやうになつた。
座敷は日本座敷がいい。西洋室は金がかかるから、迚[とて]も出来ない。西洋に居た頃は成る程立派だと思つた家も沢山あつたが、日本に帰つてから、自分の気に入つた西洋室を見た事がない。華族、富豪などでも、随分チグバグの西洋室を立てて納まつて居るが、矢張金の問題の為であらう。私は矢張瀟洒[せうしや]な小ぢんまりした日本座敷がいい。畳数でいふと、
四畳半と云ふ処が理想的
である。
私の家は父が支那狂[しなきよう]と云ふ程、支那趣味の人であつたから、卓子[テーブル]も椅子も支那製の竹のが多いし、器物[きぶつ]も支那焼の陶器が多い。庭の植木まで態々[わざわさ]支那から取寄せたのださうである。私も支那趣味は嫌ひでないから、父の残して行つた物を其儘[そのまま]用ひて居る。
私の家では年に二度づつ大掃除の時に畳を上げるのが面倒だから、階下[した]は六畳の茶の間と、女中部屋の外を全部板敷にして籐の蓆[むしろ]を敷いた。二階は畳を上げずともいい規則だと云ふから、ここは全部畳を敷いてある。大掃除の干渉が余り厳[ひど]いから、かうして了[しま]つた。
私の書斎は二階で、畳数は六畳であるが、書物を沢山置いてあるから、居る処は四畳半位きりない。若い頃卓子[テーブル]を用ひた事もあったが、冬は寒いし、夏は蚊がやつて来るから、近年は坐つて読書[よみかき]する机を用ひて居る。
私の道楽は日本音曲である
静養中に居る頃ピアノを稽古したが、今はやらぬ。どうも西洋音楽は、生活と心持が伴はぬやうである。日本の生活には矢張日本音曲が調和して居る。空に三日月が出て居ても、清元などなら此情景としつくり合うであらう。
清元が好きである。あの節が面白い。一口に云ふと意気だとでも云ふのであらう。私は総じて節の多いものが好きである。哥沢[うたざは]もいい。河東[かとう]や一中[いつちゆう]もいい。長唄となると、余り好きではない。
芝居は好きでよく見に行くが、矢張歌舞伎が好きだ。三味の入った芝居でないと、芝居のやうな気がしない為であらう。新しい芝居は、義理で見に行くが、金を出して見やうとは思はぬ。
囲碁とか将棋とか球突とか云ふやうなものは嫌ひである。凡て勝負事は好まぬ。船遊びはいい。私が中学校時代には、ベースボール等が今程盛んではなかったから、学生は皆運動に艪を漕いだものであつた。私も其時分からよくやつた。今でも艪を漕ぐのは好きである。それから又泳ぎも好きである。私は神伝流の最上級の免状も取つた。
泳ぎには多少の自信がある。
此の頃書畫[しよぐわ]なども少し集めては居るが、所謂書畫道楽ではない。骨董道楽には、一種の趣味の型が固定して居る。私はそれが嫌ひである。寧[むし]ろ私は古本道楽の方である。盆栽などはさう趣味もない。智識もない。併し小鳥は好きである。私は鶯や目白が好きで、今も飼つて居る。

愛憎と云ふ程深刻なものではないが、所謂毛嫌ひする癖は、私にもある。物に対して、人に対して、此癖は私なり強い。人の名前を聞いた丈[だ]けでも、嫌ひな人があると云ふ程で、困る。併し其大嫌ひな人でも、一度会つて見ると、急に好きな人になつたと云ふやうな例は少くないから、真[ほん]の根柢[こんてい]のない毛嫌ひに過ぎない。
私は親類交際[しんるいつきあひ]といふ事が、一切嫌ひである。新年の廻礼[くわいれい]などには出た事もないし、親類の人が来ると、話をするのが面倒だから、裏口からこつそり遁げ出すのが常である。親類でも私の事は変り者だと云つて、別人として取扱つて居る。私もそれが本望である。人と世間話をするのが嫌ひ、手紙を貰つても返事を出すのが嫌ひ、どうも良くない癖である。
親類の人の外[ほか]、訪問客は幸ひにして余り来ないが、訪問客に煩はされるのは苦痛である。併しそれよりも一層苦痛なのは、親類のオバ[難漢字]さんなどが来て、用もないのに長たらしく話し込まれる事である。この時ばかりは真実[ほんとう]に寿命が縮まるやうに思ふ。
出不精と云ふのであらう。私は余り外に出るのは嫌ひである。友人と散歩するなどと云ふ事もあまり無い。散歩なら只一人で、ぶらりぶらり足に任せて歩いて居たい。
私程寝ることの多い者は恐らくあるまい
まるで寝る為に生れて来たようなものである。学校へ行かぬ時は朝九時頃までは寝る。それから午後に一時間半位昼寝をする。夜は読書をして居るので、寝るのが十一時頃になる。寝たら最後、どんな事があっても朝九時頃までは目が覚めぬ。去年泥棒が入つて、私の寝室から物を盗み出して行つたが、それも少しも知らずに寝て居た位である。頭が悪い為、かうよく寝られるのかも知れない。夜の十二時間は寝て、又昼の十二時間の中[うち]、其の半分は寝て暮す事も珍らしくない。
筆を執るのは、大抵午前中である。午後や夜分に書く事は殆ど無い。筆の速力は極遅い方で一日に二三枚位きり書けぬ。どんな物でも一箇月はかかるから、雑誌の原稿などは大抵一月前に書いて置くやうにして居る。さき[難漢字]に朝日新聞に小説を書いた時には、一箇月も前から書き始めて、出来て居たのを順々に書き直して出して行くやうにして居たが、それでも仕舞には今日の分に追はれるやうになつた。
悪い癖で、書き直しを多くする。字の並べ方が穢[きたな]いのを書き直すと云ふ風に、幾度も幾度も清書をし直す。殊に書き出しなどは幾通りにも書いて見る。大抵の作は、三通りも四通りも書き出しがあると云ふ風である。私の事を推敲を重ねると人は云ふが、推敲と云ふのでも無からう。無理に凝つて、こぢつける方かも知れぬ。

ペンは一切用ひた事がない
私共の雑誌で、筆で原稿を書くのは私一人であるが、私は西洋へ行つて居る間も、日本の筆を持つて行つて、日本字は一切これで書いて居た。私にはどうも日本の筆の方が書きいい。万年筆はインキを入れるのが面倒だし、書いて居る間にインキが出たりするから、使つた事はないが、此頃万年筆を用ひないのは少からう。筆は極下等なもので五六銭位の水筆[すゐひつ]である。それも命毛[いのちげ]の切れた禿筆[ちびふで]で、ちびちび書いて行くのがいい。紙も無論日本紙で、半紙を二つ切りにしたもの、自分で作つた十行二十字詰の型の版木を紙屋に預けて置いて刷らせる。
小説を書き始めた頃から見ると、此頃は段々苦しくなつて来た。段々出来なくなつて来た。以前のやうに、どうも自信のある得意な作は出来ぬやうになつた。これまで自分の書いたものの中で、自信のあるのは「牡丹の客」の中に収めた「狐」夫[それ]から「春のおとづれ」
人生観や哲学観の余り露骨に出て居るものは嫌ひである。私は哲学などの権威を認めぬから。
所謂傾向小説は好まぬ
描写の面白味のあるものが、私には矢張嬉しい。
「懐手で小さくなつて暮したい」-夏目さんは夏目らしい事を云ふ。私も夏目さんと同感である、私は引込み思案である。世の中に出て、大きくなつて騒ぎ廻る事などは嫌ひだから、会などにも余り出ないし、殊に会の幹事などになつて斡旋の労を取ると云ふやうな事は、迚[とて]も私には出来ない。静かな処で小さく暮すのが、私に一番適当して居るやうに思はれる。
住居[すまい]は明るい方がいいけれども、書斎は余り明るくない、少し陰気だと思はれる位の処がいい。
(一九一四(大正三)年四月五日「大阪朝日新聞」)