2/2「侠客の種類 - 幸田露伴」日本の名随筆別巻94江戸 から

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2/2「侠客の種類 - 幸田露伴」日本の名随筆別巻94江戸 から

斯して至る処に博奕が盛んになり博徒が多くなると、自然他所他国の親分達の面を合せる場面も多いから、互に敵愾心も起らう、自負心も負けじ魂も湧かう、勢ひ親分でも子分でも互に人間を磨き、他の組には笑はれまいといふ、無言の中に一致した愛党心も出来る。つまりが互に一種の面目を重んじて、一種の男らしい精神を発揮して来る。所在の子分が亦其の風を聞いて、千里を遠しとせずして有名な親分の下に奔せ集まると云つた姿である。博奕其のものの善悪は論外として、其の親分なるものの性格には洵に迨[およ]び難い美点があつた。講釈師が捉へた侠客は即ち之れである。此の呼吸を張扇で叩き出して、聴客をして血湧き骨躍らしむるものである。之と違つて、人入れを専門とする者は、多少前者と関聯して居るにしても、表面だけは決して前者のやうな殺伐な振舞が無い、極めて穏かである。ただ其の全精神は責任の完了、義務の負担を敢てして一歩も後へ退かぬといふことにある。国定忠次、飯岡助五郎、清水次郎長抔は前者の鷙悍なるものであるが、相政などになると後者の雄なるもので、自然其のやり口も形も違つて居る。然し第一流に居る者は大抵穏やかな、思慮も大きくて落着きのある人間で持つて居る。次郎長の如きは、賭場を或所で開く、勝つた人が大金を持つて帰ると途中に危険が多い、夫れを次郎長が心配して少しも危険が無いやうに子分の勇者をして之を護らしめ、行き届いて客人に色々な世話をしたので、益々侠名が隆々と揚つたといふことである。又た後者になると、そんな華々しい処が無いが、矢張り大勢の子分に親分と立てられるには夫れ相応の力量人格がなければならぬ。紺屋町の相政などは其方で名を為した。又た極く近いところの石定(人入れといふではないが)なども却々[なかなか]名高く、彼は数年前に死んだが、之れなどは先ず侠客の打止めであらう。侠客も一度講釈師の手に懸ると、何でも火花を散らして戦つてばかりゐるやうになるが、皆が皆さう云ふ事は無い。互に時勢の差、境遇の差に連れ得意の方面に其の特長を発揮して居るものの、其中に大をなして居る者は必ず張良、陳平の徒が多く、水火を踏んで辞せず、剣戟の林に入つて退かざる者は、寧ろ第三流第四流に居る処の樊噲、鯨布の徒である。之によつて見ても、若し侠客の本領は此の殺伐の点にのみ存する様に見るならば夫れは大きな間違ひである。たとへば石定などは釣が非常に好きで能く片舟忘機の楽を取つたものだが、船頭等にさへ其の物やさしい、察しのよい呼吸が如何にも穏やかなのをなつかしがられた程であった。然し当人は東京の盛り場の大抵其の縄張り地内として、その勢力の大したものなるは、其の葬の日に歌舞伎座を使用したに照してもわかる。

其処で今日になると、制度も社会状態も著しい変化を来して、昔の様に山上で賭博を公開する様なことは出来なくなり、各地共博奕は衰退の気運に向つて、先に公開的であつたものは今は奥座敷的になつてゐる。之れは一つは警察制度と関係して居る。即ち昔の博徒の或者などは、一方で公儀の御用殊に警察の用を足して居て、夫れが引続いて明治に至つた。然るに近来は警察の方針が全く違つて来て、ああ云ふ性質の者はどしどし圧迫して止まぬから、侠客は益々窮境に居るが、自分は斯[こん]なに苦める結果は何様変形するかと危み思ふ。夫れば余談であるが、先ず大名や武士が無くなつて人入れの必要も無くなつて、其の方面の侠客は亡せ、賭博の公開が出来ぬやうになつて、在来の姿で往くことは出来ぬので博徒の巨豪は尽きて了つた。然し講釈師が之を唯一の材料として、国民少くとも市井の人々の元気精神を鼓舞することは暫く止むまい。又た事実に於ても此侠客気質の幾部分は、形骸を土木の労働者、鉱山の人夫などに止[とど]めて暫らくは存在しやう。彼等の間には彼等土木業者鉱夫の如きものの間にすら通有な、礼儀があり契約があり、若し之に背けば厳重な制裁を蒙る。まして真の侠客肌の親分子分の情誼などは実に篤いもので、又意気相許した親分の為とあらば如何なる事にも身を投ずることを辞せぬ。二十年も前であつたらう、桃川燕林が上野広小路の吹ぬきといふ寄席で次郎長の伝を演じた。すると毎日のやうに其の高座の前に、一見恐ろしい容貌をした男が六七人来て聞いて居る。怪んで之を質して見ると、夫れは次郎長の子分共で、若し少しでも間違つた事を云つたなら、直ぐ高座へ躍り上つて燕林を責め糺す気であつたらしいが、燕林の調査が行届いて居て余り間違ひの無いのに感服して帰つて行つたといふ事があつた位である。

尤も関東ばかりが侠客が跋扈したと云ふでは無い、京大阪にも侠客はある。又た所謂ただの博徒の種類で侠客と称するには足らぬか知らぬが、十年も前には女の親分さへ山形にあつた位で、福島以北にも可なりの博徒はあつたらしいが、何を云つても関東が一番盛んであつた。今日講談師が地方を廻ると、ややもすれば其土地の古侠客の話を望まれる。若し有名な親分の話を知らぬ者ならば直ぐに追出され兼ねもしない。所で講談師も商売柄、能く種々の談を知つて居れば、また心ある者は土地の人に尋ねて種々詮索もする。して見れば彼の講談と云ふ物も全く事実の無い事では無いのであるが、若し此処に本当の風俗家が居て、所々を廻つて今の中に侠客や博徒の歴史を尋ねて歩行[ある]いたならば、余程宜しい材料が得られる事であらうと思ふ。之を要するに、若し徳川の文学や小説から侠客と仇討を除いたならば、其の余は極めて索寞たるものであらうと思はれる。
夫れから支那に侠客が在つたかの問題になると、之は何とも言ひ兼ねる。然し太史公の書いたものであれば、又其の後のものにも劒侠などいふ者が出没して居るが、支那の劒侠は日本のに比すればどうも神仙的、且つ超世的で、其上之と云つた思想上の社会的の関係が薄い、系統がたしかで無い。然るに日本のは義勇任侠など血脈が終始一貫して居る。武士に武士道の存するが如く、侠客には侠客道が儼然として居る。之は確かに日本人の間に生じた一特質として、他国に類の無い者と云つて宜しかろう。唯だ日本の侠客、少くとも勇み肌の人間に対し、「水滸伝」が陰に陽に感化を与へた、其の勢力の莫大なことを看過する訳には往かぬ。「水滸伝」の翻訳したのは馬琴蘭山を待つて大に行はれたのであるが、其の後盛んに芝居にも行はれ、魯智深史進李逵、浪裡白跳張順など痛く彼等の理想に投じたものがあつたらしく、其の背に彼等の花繡などをせぬならば、大哥の面目を損じた様な風を形づくつた。徳川末期の市井の状態の書き物を見ると、斯んな風俗が盛んに行はれた事が解る。又た「水滸伝」に倣つて、「天保水滸伝」何水滸伝と云ふ類が盛んに出て来たことも多少は察せられる。之は偶然な事乍ら一寸面白い現象であつたと思ふ。