(巻三十六)わが夫へ申告漏れの春ショール(川崎栄子)

(巻三十六)わが夫へ申告漏れの春ショール(川崎栄子)

4月29日土曜日

晴れ。朝家事はなし。細君は生協に出かけた。

昨日借りたなかの『角川俳句4月号』を捲り、

日陰より眺め日向の春の水(深見けん二)

人の死に追はれ追はれて秋の暮(加藤楸頓)

を書き留めた。どうもいい句に廻り合わない。

昼前に図書館(返却)経由で生協に行く。トイちゃんとトモちゃんにスナックを進呈。都住の駐輪場では猫婆さんがこそこそと猫のお食事を用意していた。

細君からは洗濯洗剤のrefillを頼まれていたが所望の品が生協にはなく、ドラッグストアに回ってみた。所望の品はあったが、容量が倍以上のパッケージになってしまっていた。言われたものその物を買って帰らないの何を言われるか分からないので言い付けは誠実に実行したとの写真だけ撮って店を出た。一メーカーの一銘柄の大容量化かも知れないが、何かこの先の販売形態の転換を暗示しているのではないかとも思う。

昼飯を大変美味しくいただく。と云っていつものように昨晩の残りと納豆だが家の物は何を食べても美味く食べてしまう。昼飯喰って、一息入れて、どうしても瞑想したくなり15分ほど瞑想いたす。

その後、散歩。南風が強い。鯉がジタバタしていた。店で酒を飲んでも美味くもなく楽しくもないのでコンビニで110円の珈琲を喫した。珈琲が好きなわけでもないがやはり散歩の途中での休息は心地好い。クロちゃんのところにも顔を出した。呼んだら出て来たがいつもの階段下が風の通り道で嫌なのだろう、すぐに元の隠れ家に戻ってしまった。

英聴は新着の、

https://www.bbc.co.uk/programmes/w3ct4y3x

を聴いた。腸内菌の話はよくテーマに取り上げられる。

寝酒を致す。寝る前に飲んでも睡眠に悪い影響は出まいと思われるここ数日の心境なので150円のハイボールと柿ピーワサビ味で寝酒をを致した。

願い事-涅槃寂滅、酔死が即死。

4月30日は永井荷風の命日だ。

で、

「飾り立てた霊柩車で...... - 半藤一利ちくま文庫 荷風さんの戦後 から

を読み返してみた。最期の“一瞬”は苦しんだのだろうが、医者にも診せず、死にも怯えず、カツ丼とおしんこで一本つけて、誰もいないところで逝ったのだ。石川淳が(『敗荷落日』の中で)何と云おうがあやかりたい。

荷風忌やお一人様として帰心(拙句)

「飾り立てた霊柩車で...... - 半藤一利ちくま文庫 荷風さんの戦後 から

いちばん最後に、拙書『永井荷風の昭和』ですでに書いたことながら、ここにそのままそっくり載せることにしたい。読んではいない人もおられるであろうから。最晩年の『日乗』の、あのすさまじいばかりに連続的な記載となった「正午浅草」についてである。すなわち、

《雨。後に陰。正午浅草》《陰。後に晴。正午浅草。》《晴。正午浅草。帰宅後菅野湯。》《晴。正午浅草。》《晴。後に陰。正午浅草。》《旧十二月一日。陰。正午浅草。》......どこまでもつづく「正午浅草」の文字の連続をみていると、悲傷長嘆の想いを深くする。

しかし、近ごろになって、何となくわかったような気になっている。日付と天気と正午浅草と書くことは、決して残された唯一の楽しみとしてはなんかではなかった。それが文人としての仕事であり、書きつづけることが先人の文業におのれも殉じることを、荷風としては意味していたのではなかったか。

〈十五日。木。晴。始不登衛〉

〈十六日。金。夜来雨。在家第二日。南弘来。不見〉

〈十七日。土。雨。在家第三日。賀古又至〉

〈十八日。日。陰。小金井君子至〉

〈十九日。月。雨。在家第五日。浜野知三郎至〉

以下、天候はなく曜日と在家第十五日、在家十六日......とえんえんとつづく。森鴎外の大正十一年六月の日記である。没したのは同年七月九日。最後の日の七月五日は在家〈第二十一日〉となっている。荷風最晩年の『日乗』の原型はここにある。荷風さんは鴎外先生と命日を同じくすることを若いときから望んでいた。老いていよいよますますそれを希求し、それで鴎外にならって《陰。正午浅草》をえんえんと書きつづけたのである。

以上再説。というわけで、この推理に今度は、すでにふれたように、文化勲章を貰ったのはまさしく『断腸亭日乗』全巻ゆえ、との確信が加わる。斃れてのち

已む、なのである。「正午浅草」の書きつがれた理由は十分に解明されたものと勝手に考えている。

そういえば小門勝二氏『永井荷風伝』「年譜」に、荷風が冗談めかして語っていたという興味あふれる話が載せられている。

「ぼくが死ぬときは、ぽっくり死にますぜ。そうなれるように観音さまにおまいりしてかたんですからね。出来れば九日という日がいいな。これじゃ欲張りすぎますかね。森先生も上田先生も九日に亡くなられたんですよ。月は違っても九日に死ねればいいとぼくは祈っているんですよ。.....」

昭和三十四年四月三十日未明、まさしく望みどおり荷風はぽっくり死んだ。新聞はいっせいにその死を報じた。「臨終も孤独のままに......文化勲章作家永井荷風氏/貫いた奇人ぶり/主なき汚れ放題の住居」(毎日新聞、三十日夕刊)など、その死に方の特異さを強調した見出しが躍った。

その前日の四月二十九日の『日乗』にこうある。これがいちばんお終いの記載である。

「祭日。陰。」

祭日すなわち天皇誕生日である。荷風宅の門前には、日の丸の旗がなびいていた。文化勲章を受章した直後に荷風はあわてて日の丸の旗を購入したという。祭日には、それをきちんと掲げて、散々におのれの文業にたいして迫害してきた国家の処遇に、ひそかに報いているのである。これを皮肉ととるか、愡けたととるか。敗戦日本。母国を愛するものがいなくなったゆえに、われひとりは国を愛す、ということであるのか。荷風はやっぱり明治の人なのである。いや、風の吹くまま気のむくまま、風狂の徒に余計な規範なし、とするか。

翌三十日、旗の仕舞われた家を、身の回りの世話をしていた福田とよが訪ねてきた。いくら外から呼んでも返事がなかったので不審に思い、奥の六畳の間の襖を開けた。皺くちゃな万年床の上で、紺の背広とこげ茶のズボンをはいたまま、荷風は頭を南向きにしてうつ伏せにこと切れていた。枕元の火鉢の中と畳の上に、黒ずんだ大量の血が吐かれてあった。他殺の疑いもあるとして、知らされて駆けつけた佐藤優剛医師によって警察に連絡され、現場検証の結果、胃からの大量出血による心臓麻痺と死因がはっきりしたのは午後五時である。死亡推定時刻は午前三時。ボストン・バッグに入っていた預金通帳の総額は二千三百三十四万四千九百七十四円、それに手の切れるような新しい札で現金が三十一万三百八円も入っていた。荷風さんは、ことによると、この日に死ぬつもりなんかなく、五月九日まで何とか頑張るつもりで金を下ろしておいたのではなかったか。これほどの現金をみるとそう考えてみたくなる。それはならなかったが、ともかく、その望みどおり首尾一貫させての見事な野たれ死にを遂げたのである。

それに、もう一つ、遺言のようなものはどこにもなかったのであるが、前にも引用した昭和三十年刊『荷風思出草』に、死後のことについて、相磯凌霜氏が前々から荷風から聞いた話として、こんなことを語っている。

「前によく先生とお葬いの話をしましたね。先生のお葬いは差荷[さしにない]の駕籠で、なるべく雨のショボショボ降っている夕方、駕籠のあとから私がタッタひとり、冷飯草履に尻つぱしよりでボンノクボまではねを上げて、トボトボ三輪の浄閑寺までついていくなんて決めていましたが、もうだめですね。よほどいなかの葬儀屋へでもいかなけりやあ、差荷の駕籠なんてありませんよ。先生の大きらいな霊柩自動車でブウブウですよ。」

これに荷風は答えている。

「あの飾りたてた自動車でブウブウやられたんではたまりませんよ。」

これもまた、思うようにはならなかった。葬儀の日、晴。飾り立てた霊柩車がその遺体を乗せて、ほんとうに多く集まった弔問客をブウブウ鳴らしながらかきわけてゆくのを、わたしは「サヨナラ」と呟きつつ深々と頭を下げて見送ったのである。