「歌舞伎イヤホン讃歌(平成10年5月) - 小泉純一郎」巻頭随筆百年の百選 から

「歌舞伎イヤホン讃歌(平成10年5月) - 小泉純一郎」巻頭随筆百年の百選 から

十五代目片岡仁左衛門襲名の舞台を拝見した。是非とも見ようと二月の歌舞伎座へ出掛け、夜の部の「口上」と「助六」を楽しませて頂いた。舞台は実に華やか、「口上」では錚々たる大俳優・人気役者が一堂に顔を揃え、そのひとりひとりの挨拶が誠に折り目正しく、しかしその中にもそれぞれの個性が表われていて実に面白い。私も挨拶の仕方というものが少々勉強になったように思う。
一方、「助六」はまさに豪華絢爛そのもの。場面の華やかさに加え、道具、衣装、化粧、見得、そして新・仁左衛門の男振り等々……助六で花道から出てきた時など、「松島屋!」という掛け声とともに、どこからか聞こえて来た「いい男だなあ」という声がまさにぴったり、ほれぼれするような男振りであった。
そもそも私が歌舞伎を見始めたのは「勧進帳」からだ。もうかなり前、まだ学生の頃だと思うが、「勧進帳」というのはあまりにも有名なのでどういうものか見てみようと思い、まず見に行ったのが先代の幸四郎(後の白鸚)さんの弁慶で、その時の感動は今も忘れず心に焼き付いている。
その後が染五郎(現・幸四郎)、万之助(現・吉右衛門)の兄弟、これも若かったけれども、そのひたむきな姿にひどく感動した記憶がある。当時は「勧進帳」にこだわり、劇場に行っても「勧進帳」だけを見て帰って来たほどだが、それというのも、「勧進帳」には歌舞伎の様式すべてが収められているし、まったく無駄がない、これほど完成された演目もないと思うからだ。歌舞伎を初めて見るなら「勧進帳」、私は「日本のオペラはないのか?」と聞いてくる人にはまず「勧進帳を見なさい」と答えることにしている。

いつしか時も経ち、途中何年かは歌舞伎から遠ざかってしまっていたが、「勧進帳」だけしか知らないというのもどうかと思い直し、いろいろな演目を見始めたある時、さらに私を虜にしたのがイヤホンである。「イヤホンガイド」と称する。劇場で貸し出している解説システムであるが、これを使ってみると、なるほどそれまでにわからなかったよさが次々とわかるようになり、なぜもっと早く使わなかったのかとしみじみ思ったほどだ。もちろんイヤホンがなくても芝居は楽しめるが、イヤホンを使えば二倍は楽しめるというのが私の持論でもある。
何度も見ているはずの「勧進帳」でさえ、これまでは何気なく見過ごしてしまっていた所が多く、例えば、富樫が義経主従を見逃して舞台上手に引っ込むところでの「泣き上げる」という仕草など、なぜこうするのか普通に見ているだけでは一向にわからず、また「泣き上げる」という言葉も私などには知るべくもない。これは、弁慶が自分の主人である義経を思うその一途な気持ちを富樫が察して、泣きながら、あるいは泣くのをこらえて入るところだが、そこで見せるちょっとした仕草も、その意味がわかると、より感ずるところがある。
また「忠臣蔵」では、高師直が塩谷判官の奥方である顔世御前を見て扇子を落とす。さあ、なぜだ?役者が失敗したのか?初めての人にはとてもわかるまいが、これは顔世のあまりの美しさに驚いて扇子を落とすのだという。これなど、とてもしゃれていて、じつにうまく考えられたみごとな演出ではないか。この場面に限らず、知らないでいるとほとんどの人が見過ごしてしまう所は多々あるはずだ。そのうち私も、綺麗な人に出会ったらさりげなく扇子を落としてみようか、ふとそんな悪戯を思い立つというのもまた楽しい。
ところで、イヤホンの解説をしている方々の苦労も、おそらく大変なものがあるに違いない。大事な場面やセリフの聞かせどころでいろいろと解説が入るとうるさくなってしまうし、あまり入れないでいても物足りなく感じることだろう。解説者は、歌舞伎に詳しいことはもちろんだが、詳しいだけでなく芝居のテンポに合わせた程よい解説で、芝居の邪魔にならずに理解させなければならない。となると、これはなかなか大変な仕事で、私も常連客のひとりとして、ここでひとつ感謝の言葉を贈らねばならないだろう。

イヤホンをしていると初心者のように見られていやだという人もいるだろうが、何度見てもイヤホンは使ったほうがいいと私は思う。初心者はもちろんのこと、初心者ではないいわゆる「通」の人でも歌舞伎を見るときは是非イヤホンを使うことをお薦めしたい。なぜならば歌舞伎は不思議なくらいに、同じもの繰り返し見て行くと、ますます面白くなってくるからだ。そこが映画とは違い、むしろ音楽の方に似ている。
音楽も、自分ではよく知っているようでいて、知らない曲はまだ沢山あるし、さらに一回聴いただけでその持ち味、良さがわかるというものでもない。また楽団や指揮者による違いと共に、その日の出来不出来もあるのと同様、歌舞伎も配役によるちかはもちろんのこと、同じ顔ぶれでも一回一回の舞台がこれまた違うものだ。だから、音楽も、歌舞伎も、そしてオペラも、同じものを見れば見るほど、聴けば聴くほど新しい良さが発見出来て、その奥の深さがよくわかる。
歌舞伎には、まだまだ私がわからない良さが沢山あると思うし、さらにはもっと大勢の人、特に若い人達に歌舞伎を是非見てもらいたいものだと願っている。そこで重要なのは三階の安い席、そのお客を一番大事にしなければいけないということだ。オペラでも最上階のいわゆる天井桟敷のお客を大切にし、その層にどうやって何回も見せるかがポイントだともいわれる。そこでひとつ私の提案だが、三階席のお客さんに限り、イヤホンを無料にしてみてはいかがなものだろうか?これからの観客を育てるためと考えれば、そのようなことも実行してみて良いのではないだろうか。
もう一点は、観劇はひとりでなく、是非家族か友人など誘って一緒に見ることをお薦めしたい。その方が一層よくわかるし、楽しめること請け合いだ。歌舞伎はいま黄金時代とも呼べる時を迎え、人気と実力を兼ね備えた俳優が指を折ってもきりがないほど目白押しで、いずれも脂が乗り切って勢揃いしている。いま見ないと損だと、私も力を込めて吹聴している今日この頃である。