「哲学は死の練習になるのか - 木田元」木田元・軽妙酒脱な反哲学 から

 

「哲学は死の練習になるのか - 木田元木田元・軽妙酒脱な反哲学 から

つい最近八十二歳になった。五年ほど前には胃ガンの少しややこしい手術もして、いちおう生死の境をくぐりぬけてきたことにもなる。おまけにやってきたのが哲学だ。大学入学から数えれば、かれこれ六十年以上も哲学書を読み暮らしてきたことになる。となれば、もう死ぬことなで怖くないでしょうねと訊かれることがあるが、そううまくはいかない。いくつになっても、死ぬことはあまり気乗りのするものではない。
それに、どうやら哲学は宗教と違って、かならずしも死への心構えを準備させてくれるものではなさそうだ。
たしかにプラトンは『パイドン』という対話篇で、そこに登場してくるソクラテスに「正しく哲学している人びとは死ぬことの練習[メレテー]をしているのだ」と言わせている。だが、これはどうやらプラトンが、先生のソクラテスの刑死後に訪れた南イタリアピタゴラス教団で学んだ一種の宗教的信条で、彼自身の哲学的思索の帰結ではなさそうだ。ピタゴラスの開いたこの教団は、霊魂の輪廻を信じ、霊魂を肉体の汚れから浄化することによってその輪廻から救い出そうと目指す。当然、霊魂を肉体から解放してくれる死を善いものと見る。この信仰をプラトンも受け継いだらしい。
それは、彼が在りし日の師の姿を忠実に伝えようとしたものだと思われている初期の著作『ソクラテスの弁明』の最後で、ソクラテスにこんなふうに語らせ、死は知りえないと主張しているところからもうかがわれる。

「しかし、立ち去るべき時だ、私は死ぬために、諸君は生きるために。だが、われわれのいずれがより善いところにゆきつくか、それは誰にも分かりはしない。神よりほかには」

ほかにも彼はこの『弁明』では、死を知っている者はいないといったことを繰り返し述べている。つまり、ここでは、死はかならずしも善いものだとはされていないのだ。したがって私は、哲学を死の練習[メレテー]だとする『パイドン』の主張にあまり従う気にはならない。
むしろ、弟子の子路[しろ]に死について尋ねられ、「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」と答えた孔子に共感する。
私が長い間読んできた二十世紀ドイツの哲学者ハイデガーも『存在と時間』で、「自己の死」についてこう述べている。自己の死は、「誰にも替わってもらうことができないし、誰の助けを借りることもできず、それがくることは確実だが、いつくるのかは決まっておらず、その先にまわってみることなど決してできない、自己の究極の可能性」なのだ、と。そしてハイデガーは、人間にとって「本来的な生き方」とは、この自己の死を不断に見据え、それに覚悟を定めて生きる生き方、つまり「死に臨む存在」なのだと主張するのだ。
たしかに、自己の死についてのハイデガーのこの見方はまことにユニークだが、まるで『葉隠』のように、つねにおのれの死を見据えて生きるというのが、いったいどういう生き方なのか、私にはうまくのみこめない。
自己の死についてのハイデガーのこうした主張に対しては、少し年少のフランスの哲学者サルトルも『存在と無』で異論を唱えている。彼にとって死は私のすべての可能性を無にし、私の人生からすべての意味を除き去ってしまう、まったく不条理な偶発事なのである。彼に言わせると、私の誕生が選ぶことも理解することもできない不条理な事実であるのと同様に、私の死も、理解したり対処したりすることのできない不条理な事実なのだ。
ここで面倒な議論をする気はないが、「自己の死」に関してだけは、私もサルトルに一票を投じたい。こちらの方が私の感じに近いからだ。
ハイデガー自身、『存在と時間』で持ち出した死生観の根にあるのは自分の個人的信念であることを認め、どんな哲学的思索も、結局こうした個人的信念を出発点にせざるをえないのだと主張していたそうである。
ということは、哲学的思索をいくら重ねても、死への真の洞察に達したり、その恐怖を決定的に乗り越えたりすることなどできそうにないということである。
だが、そうした宗教的・哲学的なレベルの話とは別に、やはりこの歳になると、身近な者が次々に鬼籍に入るので、いやでも死に馴染まされ、漠然とではあれ死のイメージが形をとってくるものだ。
私のばあい、それはこんな形をとる。つまり、私たちは生命の大きな流れのなかから飛び散った一滴のしずくのようなもので、しばらくはそうした個体として生きているが、やはりまた元の大きな流れに引きもどされ、蕩々[とうとう]と流れてゆく。それが個体にとっての死なのだ、とそんなふうに思うようになってから、体調が落ちて、あまり永くは生きられそうもないなという気分になったときも、それほどジタバタしなくなったような気がする。
こうした一種アニミスティックな死生観を整理し体系化すると神道のようなものになるのではないかと思うのだが、あまり体系化などしない方がよいのかもしれない。本当に死が間近にせまったとき、肉体的苦痛のなかでこんなとりすましたことを言っていられるかどうか自身がないが、これが今のところ私の死をめぐる想いである。