「哲学は疑う - 土屋賢二」幸・不幸の分かれ道 から

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同じ境遇でも、ものの考え方がちがうだけで幸福だと感じる人と不幸だと感じる人がいます。極端に言えば、ふつうなら考えられないほど不幸な境遇にあるのに幸福そうにしている人がありえます。そういう人は少数ですが、実際に存在しています。ものの考え方で幸福か不幸かが決まることがあるのです。
本当は不幸でも何でもないのに、考え違いをしているために不幸になったりしたら、くやしい気持ちになるのではないでしょうか。そうでなくても不幸のタネは多いのですから。残念なことに常識の中には、人を不幸にするような考えがかなり含まれています。そういう考え方は、冷静に吟味すると間違っていることが分かるのですが、ちょっと油断するとそういう考え方の餌食になってしまうんです。
哲学で、色々な問題を考えるとき一番警戒しなくてはならないのは、無意識のうちにもっている誤った先入観です。だから哲学では、どんなに当たり前に見えることでも、本当にそれが正しいのかどうかを疑います。
その点で宗教とは根本的に違います。宗教は信じることが必要ですが、哲学には疑うことが不可欠です。疑えるものは全部疑う。だから、哲学をやっていると、簡単に信じるということがなきなってきます。ぼくも授業で、学生に疑うように口うるさく指導した結果、学生からだんだん信用されなくなって、ぼくの人間性まで信用されなくなりました。それほど、哲学はどんなことも疑うんです。
とことん疑う哲学でさえ、間違いを犯すことがあります。ぼくも、実際に授業でしゃべっていて、学生に間違いを指摘されることがあります。どんなに教師のプライドが傷ついても、間違っていたと認めるしかありません。細心の注意を払って考えていても、間違いを認めるしかないことがあるんです。だから自分の考えていることは絶対正しいという確信はなかなかもてません。
人間は考え違いをしやすいからこそ、哲学は常に疑わないといけない。どんなに当たり前に思えることでも、疑わなくてはならない。デカルトは、自分の手や足があることも、身体をもっていることも疑えると主張しました。なぜかと言うと、もしかしたら手足や身体をもっている夢を見ているだけかもしれませんからね。2+3=5というのは疑う余地がないと思うかも知れませんが、悪い神様いて、われわれにそう思い込ませているだけかもしれません。だからそれも疑えるとデカルトは主張したんです。そこまで徹底的に疑うんです。

疑いをさらに徹底させて、「何でも疑える」という主張自体が疑わしいという人もいます。つまり、人間は何でも疑えるという主張を疑うんです。これはウィトゲンシュタインという人が二十世紀に主張しました。
このように、疑うということが哲学者の基本原則になっています。なぜ疑うことが必要かというと、人間はそれだけ間違えやすいからです。絶対に確かなことしか受け入れまいと心に決めても、間違いを犯すんです。実際に大哲学者でさえ誤りを犯しています。
デカルトは徹底的に疑った人ですが、それでも、基本的な間違いがいくつも見られます。哲学史に残っているような大哲学者は、その時代でも飛び抜けて頭のいい人たちです。デカルトは数学上の功績も残していて、天才的に頭のいい人だったんですが、そういう人でも、基本的なところで間違いを犯すということが、研究してみると分かってくるんです。
哲学の勉強をしていて一番よかったと思うことは、人間はみんな、基本的に愚かだと分かったことです。頭がいいとか悪いとか言っても、ドングリの背比べで、人間って基本的には頭が悪い。ものを考える力が貧弱だと思うんです。多くの人は愚かさを悟られないようにしていますが、実際のところ、人間は正確に考えることが苦手だと思うんです。だから、なおさら一生懸命注意深く考えないといけない。哲学を勉強すると、自分が考えていることも、どこかで間違えているんじゃないかと疑う習慣がついて、自分の考えに自信がもてなくなります。